1995年 第3回 南アフリカ共和国大会
Francois Pienaar
トロフィーを渡すMandela大統領
アパルトヘイトの撤廃と共に初めて参加が許された南アフリカ共和国によって主催された第3回大会は、その南ア・スプリングボックスが優勝した。
アパルトヘイトの闘士ネルソン・マンデラ大統領がスプリングボックスのジャージを着用して行ったトロフィー授与は、スポーツ史における最も偉大な瞬間の1つとして記憶されている。
この大会は初の1ホスト国による開催であり、そしてまたアマチュアスポーツとして最後のラグビーワールドカップでもあった。この2ヵ月後、IRBはプロフェッショナルスポーツとしてのラグビーに門戸を開く。
決勝戦は、影の最強国と恐れられていた初参加の地元・南アフリカと、怪物・ジョナ・ロムー(Jonah Lomu)を擁するニュージーランド。
予想外にロースコアとなった試合は、両チーム共にトライは無し。終了間際にニュージーランドのSO アンドリュー・マーテンス(Andrew Mehrtens)がドロップゴールを狙うが惜しくも外れ、9-9のまま試合はW杯史上初の延長戦に突入する。延長でもお互いにペナルティゴールを1つずつ決めただけの均衡した状態で進むが、スプリングボックスのSO ジョー・ストランスキー(Joel Stransky)によるこの日2本目のドロップゴールで勝敗は決した。
これで、ここまでの3大会の優勝国はニュージーランド、オーストラリア、南アフリカと全て南半球。翌年からはこの3ヶ国によるトライネイションズも始まり、ワールドラグビーの中心はもはやヨーロッパでは無いことを印象付けた。
| 順位 | ||
|---|---|---|
| ●優勝 | ||
| ●準優勝 | ||
| ●3位 | ||
| 得点ランキング | ||
|---|---|---|
| 1 | 112 | |
| 2 | 104 | |
| 3 | 84 | |
| 4 | 79 | |
| 5 | 61 | |
| トライランキング | ||
|---|---|---|
| 1 | 7 | |
| 1 | 7 | |
| 3 | 5 | |
| 3 | 5 | |
| 5 | 4 | |
| 5 | 4 | |
| 5 | 4 | |
世界が「怪物」を知った日
この大会のハイライトは、イングランド戦で見せたニュージーランドの若き英雄ジョナ・ロムーの4トライであった。
史上最年少の19歳でオールブラックス入りした彼は、ラグビーの常識を覆す、まさに「怪物」であった。速い。そしてそれ以上に、強い。タックルの1つや2つを受けても倒れず、むしろ弾き飛ばす。
120kg近い巨体で100mを10秒台で走る「暴走機関車」は世界を震撼させ、弱冠20歳でW杯トライ王を戴冠した。
1994年の香港セブンス(7人制ラグビー)で既に彼を知る人は多かったが、この大会での衝撃はラグビーファンにとどまらない驚愕を世界に与える。
大会後、彼の生まれ故郷であるトンガでは、新たに誕生した火山に「Lomu」と名付けたという。
この後の彼の栄光と、度重なる内臓疾患による苦難については、別の場所で記す機会があるかと思うので、ここでは割愛したい。
服毒疑惑?
決勝戦での精彩を欠いたオールブラックスの動きについて、2日ほど前に選手の約半数を襲った食中毒によるコンディション低下が指摘される。そしてここに、根強くささやかれ続ける、ある疑惑がある。
ニュージーランドのコーチLaurie Mainsによると、問題の食中毒が発生したと思われる食事の際、クラウンプラザホテルに宿泊していた選手たちの食事を給仕をしていた「スージー」というウェイトレスが、「何か」をしたというのだ。複数の選手が、同様の証言をしている。しかしホテル側は、そのようなウェイトレスの存在自体を否定している。
逆にホテルマネージャの1人であるTony Rubinは、ルールを破ってシーフードを食べに選手が外出したことが原因だとも主張する。
そして、ここでもう1つの、こちらは事実。決勝の前日、オールブラックスの選手たちが宿泊する部屋から盗聴器が発見されたのだ。
発信機が発見され騒ぎになった時、それと呼応するようにホテルの外で車の警笛が聞こえたという。おそらくは車内で傍受していた盗聴者による、何かの合図なのだろう。
では、誰が、何のために仕掛けたのであろうか。
オールブラックスのキャプテン、ショーン・フィッツパトリック(Sean Fitzpatrick)は試合後、大会前に南アフリカラグビー協会会長Louis Luytにかけられた言葉を思い出したという。
「ショーン、私はニュージーランドに勝つためなら、なんでもやるよ。」
ある人は声高に陰謀説を唱え、またある人は一笑に付す、「噂」である。
映画 “Invictus”
この大会は、アパルトヘイト撤廃後の民族融和の祭典として位置づけられた。
優勝した南アフリカ主将フランソワ・ピナール(Fancois Pienaar)に、マンデラ大統領が彼の6番のジャージを着、キャップを被り、ウェブ・エリス・カップを授与する瞬間は、スポーツ界にとどまらない近代史上のハイライトのひとつといえる。
この大会を描いた小説”Playing the Enemy: Nelson Mandela and the Game that Made a Nation“が、”Invictus” (邦題:インビクタス ~負けざる者たち~)というタイトルでハリウッドで映画化された。このタイトルの元々の意味は、ラテン語で「不屈」。人種差別との苦難の闘いに決して屈しなかったマンデラ大統領と、無敗でワールドカップを制したスプリングボックスを支えた言葉だという。
監督はクリント・イーストウッド。スプリングボックス主将フランソワ・ピナール(Fancois Pienaar)をマット・デイモン(Matt Damon)、ネルソン・マンデラ大統領(Nelson Mandela)をモーガン・フリーマン(Morgan Freeman)が演じる。
日本公開は2010年2月5日より。
(関連記事)
Pool-A
| チーム | 勝 | 分 | 負 | 得点 | 失点 | 勝ち点 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 3 | 0 | 0 | 68 | 26 | 9 | |
| 2 | 0 | 1 | 87 | 41 | 7 | |
| 1 | 0 | 2 | 45 | 50 | 5 | |
| 0 | 0 | 3 | 14 | 97 | 3 |
| 1995-05-25 | 南アフリカ共和国 |
27 | - | 18 | |
| 1995-05-26 | カナダ |
34 | - | 3 | |
| 1995-05-30 | 南アフリカ共和国 |
21 | - | 8 | |
| 1995-05-31 | オーストラリア |
27 | - | 11 | |
| 1995-06-03 | オーストラリア |
42 | - | 3 | |
| 1995-06-03 | 南アフリカ共和国 |
20 | - | 0 |
Pool-B
| チーム | 勝 | 分 | 負 | 得点 | 失点 | 勝ち点 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 3 | 0 | 0 | 95 | 60 | 9 | |
| 2 | 0 | 1 | 96 | 88 | 7 | |
| 1 | 0 | 2 | 69 | 94 | 5 | |
| 0 | 0 | 3 | 69 | 87 | 3 |
| 1995-05-27 | イタリア |
18 | - | 42 | |
| 1995-05-27 | アルゼンチン |
18 | - | 24 | |
| 1995-05-30 | サモア |
32 | - | 26 | |
| 1995-05-31 | イングランド |
27 | - | 20 | |
| 1995-06-04 | アルゼンチン |
25 | - | 31 | |
| 1995-06-04 | イングランド |
44 | - | 22 |
Pool-C
| チーム | 勝 | 分 | 負 | 得点 | 失点 | 勝ち点 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 3 | 0 | 0 | 225 | 45 | 9 | |
| 2 | 0 | 1 | 93 | 94 | 7 | |
| 1 | 0 | 2 | 89 | 68 | 5 | |
| 0 | 0 | 3 | 55 | 252 | 3 |
| 1995-05-27 | 日本 |
10 | - | 57 | |
| 1995-05-27 | アイルランド |
19 | - | 43 | |
| 1995-05-31 | アイルランド |
50 | - | 28 | |
| 1995-05-31 | ニュージーランド |
34 | - | 9 | |
| 1995-06-04 | 日本 |
17 | - | 145 | |
| 1995-06-04 | アイルランド |
24 | - | 23 |
Pool-D
| チーム | 勝 | 分 | 負 | 得点 | 失点 | 勝ち点 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 3 | 0 | 0 | 114 | 47 | 9 | |
| 2 | 0 | 1 | 149 | 27 | 7 | |
| 1 | 0 | 2 | 44 | 90 | 5 | |
| 0 | 0 | 3 | 29 | 172 | 3 |
| 1995-05-26 | コートジボワール |
0 | - | 89 | |
| 1995-05-26 | フランス |
38 | - | 10 | |
| 1995-05-30 | フランス |
54 | - | 18 | |
| 1995-05-30 | スコットランド |
41 | - | 5 | |
| 1995-06-03 | コートジボワール |
11 | - | 29 | |
| 1995-06-03 | フランス |
22 | - | 19 |
準々決勝
| 1995-06-10 | フランス |
36 | - | 12 | |
| 1995-06-10 | 南アフリカ共和国 |
42 | - | 14 | |
| 1995-06-11 | イングランド |
25 | - | 22 | |
| 1995-06-11 | ニュージーランド |
48 | - | 30 |
準決勝
| 1995-06-17 | 南アフリカ共和国 |
19 | - | 15 | |
| 1995-06-18 | イングランド |
29 | - | 45 |
3位決定戦
| 1995-06-22 | フランス |
19 | - | 9 |
決勝
| 1995-06-24 | 南アフリカ共和国 |
15 | - | 12 |