ラグビー ジンバブエ代表 (セイブルズ)
| 世界ランキング | 33位 (2012-01-30) |
| ウェブサイト | http://www.zimbabwerugby.com/ |
| 代表チーム | Sables |
| 代表監督 | Brendan Dawson |
| 30 | 53.62 | |
| 31 | 53.36 | |
| 32 | 53.22 | |
| 33 | 52.40 | |
| 34 | 51.57 | |
| 35 | 51.46 | |
| 36 | 51.46 |
ジンバブエでは、ローデシアと呼ばれていた1890年の古くよりラグビーがプレーされている。しかし、その独裁的な政治体制と脆弱な経済基盤から、なかなか安定したチーム強化が難しい。そのため、多くの有力選手が海外に移住し、その国の代表となっている。特に南アフリカは地理的にも隣で、政治・経済的にも密接な関係にあり、大勢のスプリングボックスを輩出している。
過去、ワールドカップには2度出場。しかし、その位置づけは、アパルトヘイトへの制裁として出場を禁じられている南アフリカに代わるアフリカ代表であり、南アフリカの人種隔離政策が終わり国際舞台に復帰した1995年大会以降は出場できない状態が続いている。
流出選手
「世界最悪の独裁国家」とも呼ばれるジンバブエからは国外に逃亡する人たちも多く、ラグビーにおいても高校で頭角をあらわした選手は積極的に亡命していってしまう。
レイ・モード、ゲイリー・テイクマン、ブライアン・ムヤチ、エイドリアン・ガーベイ、テンダイ・ムタワリラ、ボビー・スキンスタッド、トンデライ・シャバンガ、ケネディ・ジンバなどはスプリングボックスに選ばれた。他にもオーストラリアへ亡命したデービッド・ポーコック、アイルランドへ行ったデービッド・カーティスなど、枚挙に暇が無い。また、パーシー・モンゴメリーやジョージ・グレーガンなども元々ジンバブエの生まれである。
ローデシア時代
1895年にラグビー協会設立。その3年後には、南アフリカへ初の遠征を行っている。
1910年、ブリティッシュ・ライオンズの南アフリカツアーに含める形で、世界最高チームと戦う栄誉を得る。試合は24-11で敗れた。1924年にも同様にライオンズと対戦。やはり16-3で敗戦となった。1928年にはニュージーランド・オールブラックスと初対戦。44-8で大敗した。
1938年には、ライオンズの南アフリカ遠征にあわせてツアーを決行。南アの地で対戦した。この時も25-11、45-11で連敗している。なかなか世界の強豪に勝てずにいたが、1949年にオールブラックスから10-8で勝利を奪い、遂にその扉を開いた。なお、この3日後の第二戦でも3-3で引き分け、その実力を知らしめた。
1955年、またもライオンズツアーを迎え撃つ。ニュージーランドからの勝利で自信を深めていたが、27-14、16-12と連敗した。1960年にはオールブラックスからのリターンマッチを受け、14-29で雪辱される。1962年、64年のライオンズツアーでも連敗した。
このように中々トップチームには勝てない状況が続いていたが、国としての力は着々と高まっていた。60年代半ばからはスプリングボックスに選ばれる選手も出るようになってきている。70年代半ばには国内に102のクラブチームが存在する充実振りであった。1973年にはイタリアから42-4と圧勝している。
ジンバブエ時代
ローデシア紛争が終わりジンバブエ共和国が成立した1980年、新国家として初の試合をケニアと戦い、34-24で勝利をおさめた。
1987年 第1回 ニュージーランド&オーストラリア大会
ジンバブエ共和国成立から7年、初のワールドカップが開催される。南アフリカの出場辞退(事実上の出場禁止)を受けて、アフリカ代表として招待を受けた。新国家成立からの混乱で国内の選手は激減しており、数を揃えるのも大変な状況であったという。しかし、経済状況から欧州などへ遠征することは叶わない彼らにとって、トップチームと戦える貴重な機会である。わずか4ヶ月の準備期間で、彼らは大舞台へ挑む。
記念すべき緒戦はルーマニア戦。ほぼ初となる国外での試合に緊張する彼らは、ニュージーランドの大観衆に驚いたという。試合は大接戦となった。アウトサイドセンターのスター選手ジンバが2トライをあげる活躍で勝利は手の届くところまで来たが、最後は競り負けてしまった。
続くスコットランド戦では、そのジンバが怪我で欠場。強風にも翻弄され、後半に一気に差をつけられて敗れる。最後のフランス戦も、この大会で決勝まで行く強豪を相手に奮闘するも大敗。3戦全敗で大会を終えた。
しかし、この大会で世界のラグビー人気と実力を実感し、後の国内強化に大きな意義を得られたという。
| Pool-4 | ジンバブエ |
20 | - | 21 | 1987-05-23 | |
| Pool-4 | ジンバブエ |
21 | - | 60 | 1987-05-30 | |
| Pool-4 | ジンバブエ |
12 | - | 70 | 1987-06-02 |
1991年 第2回 イングランド大会
スプリングボックス不在のアフリカ予選を、コートジボワールやモロッコと競り合いつつ勝ち抜き、2大会続けての出場を果たす。
しかし経済活動の低迷から有力選手は悉く海外に流出しており、アイルランド、スコットランドというホームネイションを相手には歯が立たなかった。最後は日本に、初の(そして現時点で唯一の)勝利を献上してしまう。
| Pool-B | ジンバブエ |
11 | - | 55 | 1991-10-06 | |
| Pool-B | ジンバブエ |
12 | - | 51 | 1991-10-09 | |
| Pool-B | ジンバブエ |
8 | - | 52 | 1991-10-14 |









