ラグビー ウルグアイ代表 (ロス・テロス)
| 世界ランキング | 21位 (2012-01-30) |
| ウェブサイト | http://www.uru.org.uy/ |
| 代表チーム | Los Teros |
| 代表監督 | Gonzalo Camardon |
| 18 | 63.98 | |
| 19 | 61.24 | |
| 20 | 60.54 | |
| 21 | 60.47 | |
| 22 | 60.33 | |
| 23 | 59.52 | |
| 24 | 59.30 |
ウルグアイは国鳥テロをシンボルに持ち、南米ではアルゼンチンに次ぐ実力国とされる。
南米ラグビー・チャンピオンシップではアルゼンチンに圧倒的に支配されているものの、長年のライバル・チリと争いながら、近年は常に2位の座を確保し続けている。しかしアルゼンチンには公式には1度も勝利したことはなく、その実力差はまだまだ歴然としている。1981年には初めて(そして現在に至るまでアルゼンチン以外で唯一となる)南米チャンピオンシップ優勝を果たしているが、この年はアルゼンチンが不参加であった。
ワールドカップには、2度出場。参加国が20に拡大された99年と、続く03年大会で見事に予選を勝ち上がり、それぞれ1勝ずつ挙げている。しかし07年大会では、敗者復活最終戦まで残ったものの、ポルトガルに1勝1敗の得点差で涙を飲んだ。続く11年大会予選でも、大陸間プレーオフ最終戦まで残りつつルーマニアに敗れ、2大会続けてあと一歩届かなかった。
国際デビューは、協会設立年と同じ1948年の、隣国チリとの試合であった。21-3でウルグアイは敗れている。以降、政治的・経済的、そしてラグビーの実力的にも近い関係にあるチリとは、ライバルとして競り合っていくこととなる。1980年頃まではチリがリードしていたが、民主化の進んだ80年代半ば以降は、ウルグアイが上回るようになっている。
キリスト教とラグビー
ウルグアイのラグビー史は、キリスト教が大きな影響を与えている。元々はモンテビデオに設立されたブリティッシュ・スクールがラグビーを始めたとされているが、それを国内で最も重要なスポーツのひとつにまで高めたのはキリスト教修士達であった。
1950年代初め、カトリック学校設立のためアイルランドから5名のキリスト教修士が訪れる。彼らは学生達に謙遜、忍耐、自制、他者への奉仕を学ばせる最良の方法として、ラグビーの普及に努めた。既に先立ってモンテビデオにあったイエズス会が南米で盛んなサッカーを推奨していたが、彼らはこれを「わがままと自惚れを養うスポーツ」として抑えさせたという。
このようなキリスト教修士達の教えは徐々に根付いていき、やがてラグビーは目的への努力や自己犠牲といった道徳規範を学ぶことの出来るスポーツとして、教育の場で重要な位置を占めるようになっていく。現在でも競技人口は決して多くはないが、例えば「ドラッグと手を切り、ラグビーをプレーしよう」というキャンペーンが展開されるなど、その役割は変わっていない。
アンデスの奇蹟
ウルグアイ・ラグビーといえば、1972年10月に起きた航空機事故を思い出す人も多いだろう。
モンテビデオにある国内トップクラスのラグビーチーム、オールド・クリスチャンズ・ラグビー・クラブのメンバーが、チリへの親善試合へ向かう途中でチャーター機が事故をおこし、アンデス山中に墜落してしまう。捜索隊が出されるが機体は見つからず、生存は絶望とされた。しかし、なんと2ヶ月以上を経て彼らのうち2名が自力でチリへ脱出し、助けを呼んだのだ。彼らの通報で救助ヘリが出され、結局、乗客45名のうち16人が生還を果たす。これは「奇蹟」として世界中を驚かせた。
彼らは当初、偉大なる生還者として英雄扱いされたが、救出後ほどなくして、水も食料も無かった彼らが生き延びるために事故死した仲間の遺体を食料としていたことなどが報じられると、批難や興味本位の質問などが相次ぐようになる。
その後、事故の生存者からのインタビューを元に書かれたドキュメンタリー「生存者」(原題 “Alive: The Story of the Andes Survivors” )が発表され、極寒と飢餓との戦いの凄まじさが赤裸々に語られることとなった。これは映画にもなり、日本でも「生きてこそ」のタイトルで上映された。また、チリへの脱出行を成し遂げた Nando Parrado の一人称視点で描かれた「アンデスの奇蹟」など、多くのメディアで語られている。
1999年 第4回 ウェールズ大会
アルゼンチンの壁に阻まれワールドカップ出場は遠かったウルグアイだが、出場国が16から20に増えたことによるチャンスの拡大を活かし、第4回にして初出場を果たした。
初参加としての注目を集める中、彼らに投げかけられた質問の多くは20年以上前の航空機事故(前述)についてであったという。93年に映画化され、記憶が新しかったことも影響しているであろう。これには辟易したと後にチームマネージャは語っている。
もうひとつ注目されたのは、キャプテン Diego Ormaechea であった。彼は79年に20歳で代表デビューして以来、不動のNo8として20年以上チームを支え続けてきたウルグアイの伝説的選手である。この大会時点で40歳。もちろん史上最年長であった。余談であるが、彼は当時のウルグアイラグビー協会会長 Andres Sanguinetti よりも年長であったという。
チームは幾多の雑音にも負けず、やはり初出場の格下スペインを相手に緒戦勝利を収める。しかし続く2試合も愚直なまでにハードヒットを繰り返すも、地力に勝る強国を相手に連敗した。
Ormaecheaは、大会後ほどなくして引退するも、すぐにまた現役復帰する。結局、彼が選手として最後にユニフォームを脱いだのは2001年。41歳の時であった。
| Pool-1 | ウルグアイ |
27 | - | 15 | 1999-10-02 | |
| Pool-1 | ウルグアイ |
12 | - | 43 | 1999-10-08 | |
| Pool-1 | ウルグアイ |
3 | - | 39 | 1999-10-15 |
2003年 第5回 オーストラリア大会
22年近い代表キャリアをもって引退した Ormaechea に休む間を与えず、彼を代表コーチとしてロス・テロスは2度目のワールドカップに挑んだ。2002年には強敵カナダに勝利。アルゼンチン、アメリカとも10点差以内の接戦を演じるなど、着実に力をつけてきた印象での挑戦であった。
しかし、前回大会の最終戦で敗れている南アフリカに、前回以上の点差をつけられて大敗。続くサモアにも力負けしてしまう。初出場のグルジアには競り勝つも、イングランドとの最終戦は100点ゲームで完敗。世界との距離は、まだ遠いことを実感させられた。
| Group-C | ウルグアイ |
6 | - | 72 | 2003-10-11 | |
| Group-C | ウルグアイ |
13 | - | 60 | 2003-10-15 | |
| Group-C | ウルグアイ |
24 | - | 12 | 2003-10-28 | |
| Group-C | ウルグアイ |
13 | - | 111 | 2003-11-02 |
2007年 第6回 フランス大会
3連続のワールドカップ出場を果たし「常連国」としての地位を確立したいところであったが、あと一歩届かなかった。
アメリカ予選のラウンド3aでチリに勝利するも、アルゼンチンに完敗。ラウンド4で出場権をかけてアメリカ合衆国と戦うが、ここでも敗れてしまう。敗者復活戦に最後の望みをかけるが、ワールドカップ初出場に燃えるポルトガルを相手に1勝1敗。得失点で僅か1ポイント届かず、本戦出場はならなかった。
2011年 第7回 ニュージーランド大会
前回の雪辱を期して臨んだ大会予選。ウルグアイは王者アルゼンチンが優先出場権を持っているため不在の南米A予選を見事に勝ち抜くが、最後にアメリカ合衆国に敗れ、大陸間プレーオフにまわる。カザフスタンを下してルーマニアとの最終戦に駒を進めるが、ホーム&アウェイで1勝1敗。得失点差で敗れ、2大会続けて最後の最後で涙を飲むことになってしまった。









