ラグビー 南アフリカ共和国代表 (スプリングボックス)
| 世界ランキング | 4位 (2012-01-30) |
| ウェブサイト | http://www.sarugby.co.za/ |
| 代表チーム | Springboks |
| 代表監督 | Peter de Villiers |
「スプリングボックス」の愛称で知られる南アフリカ共和国代表は、ワールドカップ2度の優勝を誇り世界最強国のひとつに数えられる。
その歴史は古く、1891年のブリティッシュ&アイリッシュライオンズツアーにまで遡る。以来、特に英国移民である白人系のプライドを象徴するスポーツとして、永く国民に愛され続けている。
国代表別の通算成績で負け越しているのはニュージーランドのみ(ブリティッシュ&アイリッシュライオンズにも負け越し)で、世界ランキングも常に上位を維持する。ワールドカップでは95年の第3回大会で初出場での優勝を飾るなど、4度の出場で2度の優勝。
しかし、一方で歴史的に続いていた人種隔離政策(アパルトヘイト)の影響で「白人のスポーツ」とされるラグビーは非白人にとって嫌悪の対象でもあった。代表に有色人種の選手が選ばれることは、ほぼ無く、国際大会で黒人系の国民はむしろスプリングボックスの対戦相手を応援するなど、政治的な歪みをある種象徴するものでもあった。アパルトヘイトへの国際世論の反発も厳しく、そのためにIRBオリジナルと呼ばれる常任理事国の1つでありながら、第1回と2回のワールドカップへの出場を禁止されるなど、暗い歴史も併せ持つ。
選手層は非常に厚く、白人選手は総じて大柄な選手が多い。バックスの選手であっても骨太でガッシリとした長身の選手が多く、戦術は必然的に「まっすぐ密集に突進し、腕力でボールをもぎ取り、直線的に突破する」といったものになる。また、ラインアウトやパントなどの空中戦も強く、フィジカルを活かした戦い方が多くなる。
エンブレム
スプリングボックスの愛称は、1906年の欧州ツアーの際にはじめて用いられたと言われる。しかしジャージなどにエンブレムとして用いられたのはそれよりも古くから記録にある。ラグビー以外にも多くの南アフリカのスポーツチームがシンボルとしているだけでなく、南アフリカ空軍や金貨の裏面などにも使われる、まさに国を象徴する動物である。
しかし「スプリングボックス」の名は、白人ファン達がそれを愛したが故に有色人種層からの憎しみを買い、95年のワールドカップに向けて撤廃される動きがあった。
新たな呼称として提案されていたのは、やはりアパルトヘイトの時代より国民に愛されてきた南アフリカの国花であるプロテアから得た「プロテアズ」。花の名前の由来となったギリシア神話の神プロテウスは変身能力を持ち、変革期を迎えた国やチームを象徴するのに相応しいとも言われたが、時の大統領ネルソン・マンデラ氏の反対もあり、その変更はならなかった。
プロテアの花は結局92年よりチームのエンブレムにスプリングボックと共に描かれるようになり、2009年のライオンズツアーからはジャージの左胸にあったスプリングボックを右の胸に移し、左胸にはプロテアを置くように変更されている。
人種問題
アパルトヘイトが法制化されたのは1948年のことだが、基本的には17世紀より南アフリカにおける人種間の壁は顕在していた。殊にラグビーは完全に白人のスポーツとされ、1980年代はじめにErrol Tobiasが代表入りするまで白人以外の代表選手は絶無であった。
民族融和の祭典と言われる95年のワールドカップ優勝時も、代表入りしていた非白人選手はChester Williams唯1人。その状況は、アパルトヘイトの記憶を徐々に歴史の彼方に追いやろうとしている現在においても、ゆっくりとしか変わってきていない。12年を経た2007年のワールドカップ優勝時、フィールドにいた非白人選手はBryan HabanaとJP Pietersenの2人だけであった。しかしこれは根強く残る差別意識のためというよりも、黒人系の才能ある選手はサッカーに流れること、スピードと共に重さと力強さを要求されるラグビーにおいて、アフリカ系黒人の特長が活きにくい点なども指摘される。
近年では政治的プレッシャーから、純粋な能力によらず有色人種のプレーヤーの選出を強いられるといった「逆差別」の存在も問題視されている。
カップ戦
1999年より毎年、オーストラリア、ニュージーランドと共にトライネイションズを戦っている。
これは欧州で長い歴史を持つシックスネイションズを模したものだが、近代ラグビーにおいてランク上位を独占する南半球勢による王座決定戦は、事実上の世界最強国決定戦と見られる向きもある。
トライネイションズの試合では参加国同士の対戦成績によるトロフィーも賭けられており、南アフリカはオーストラリアとマンデラ・チャレンジプレートを、ニュージーランドとはフリーダムカップを争っている。
更にこの南半球3ヶ国はスーパー14でもクラブチーム最強をかけて戦う。南アフリカからは5チームが参戦。このスーパー14で活躍した選手たちが代表に招集されてトライネイションズで戦うため、ここでの成績が国同士の力量の差に直結していることも多い。
また、国内ではカリーカップが行われている。途中、戦争などによる中断はありながらも1889年から続く非常に歴史ある大会で、近年は海外から参加する選手も増えてきている。
1995年 第3回 南アフリカ共和国大会
IRBオリジナルでありながら、人種差別問題から前2回のワールドカップに出場を禁じられていた南アフリカは、アパルトヘイトの撤廃と共にようやく国際舞台への復帰を許される。
その最初の大舞台となる95年ワールドカップには、なんと自国開催という大きな花束が添えられることとなった。
1994年、同国史上初の総選挙でネルソン・マンデラ大統領が誕生すると、その翌年に予定されているワールドカップは更に大きな意味を持つようになる。それまで「白人は勝利を、黒人は惨敗を祈っていた」スプリングボックスを全国民をあげて応援することで、真の意味での民族融和を遂げる大会にすべく位置づけられたのだ。(この周辺の物語については、映画「インビクタス」で描かれている:関連記事)
動き始めた歴史の歯車は、大きな力となってスプリングボックスを後押しする。
「影の最強国」と言われ続けながら実力を証明する機会に恵まれなかった南アフリカだが、圧倒的な大観衆を背に開幕戦で優勝候補筆頭のオーストラリアを下して勢いに乗る。その後も順当に勝ち進むと、準決勝の強豪フランス戦では運も味方して辛勝。そして決勝戦では、怪物ロムーを擁し圧倒的な強さで勝ち上がってきたニュージーランド・オールブラックスと対戦する。
この決勝戦は、爆発的な得点力を誇るオールブラックスを、スプリングボックスが執念のディフェンスでトライレスに封じた。大会史上初の延長戦にまでもつれこんだ死闘は、遂にスプリングボックスがキック2本で逆転勝利をおさめた。
ワールドカップ初参加にして優勝の偉業を成し遂げたスプリングボックス・キャプテン フランソワ・ピナールは試合後のインタビューで、その勝利を「スタジアムに集まった6万の観衆だけでなく、4300万の国民全ての応援によるものだ」と締めくくった。それは、この大会を民族融和の祭典となるよう切望していたマンデラ大統領にとって、最も欲しかった言葉であっただろう。
それに続く表彰式で、スプリングボックスのユニフォームを着用したマンデラ大統領がピナールにトロフィーを渡すシーンは、単に1スポーツイベントにおけるものではなく、人類史に残る名場面として世界中に放送された。
| Pool-A | 南アフリカ共和国 |
27 | - | 18 | 1995-05-25 | |
| Pool-A | 南アフリカ共和国 |
21 | - | 8 | 1995-05-30 | |
| Pool-A | 南アフリカ共和国 |
20 | - | 0 | 1995-06-03 | |
| 準々決勝 | 南アフリカ共和国 |
42 | - | 14 | 1995-06-10 | |
| 準決勝 | 南アフリカ共和国 |
19 | - | 15 | 1995-06-17 | |
| 決勝 | 南アフリカ共和国 |
15 | - | 12 | 1995-06-24 |
1999年 第4回 ウェールズ大会
初のワールドカップで華々しい成果を残したスプリングボックスを襲ったのは、3年にわたりチームを支えたヘッドコーチ Kitch Christie の白血病による勇退という悲劇であった。ワールドカップの僅か9ヶ月前に就任してチームを優勝に導き、1996年3月までに14のテストマッチに全勝した名将であった。彼はこの後、闘病虚しく僅か2年後の98年に世を去ることになる。
Christieに代わって Andre Markgraaff が指揮を執るようになるが、チームはオールブラックスにホームでの初めての敗北をきっするなど不振に陥る。更に Markgraaff は人種差別発言が問題になり、97年には解任されてしまう。急遽後任に Carel du Plessis が入るも、コーチ経験のほとんど無い彼の下で、チームはブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズ・ツアーとトライネイションズを結果を残せずに終わる。97年末にはこの年2度目のコーチ交代で Nick Mallett が就任し、ようやくチームは落ち着きを取り戻した。
1997年から98年にかけて、Mallet と新キャプテン Gary Teichmann は、テストマッチ破竹の17連勝という記録を残し、開始3年目のトライネイションズでも初優勝を飾る。スプリングボックスにとって2度目のワールドカップを目前に、チームは一気に上昇気流に乗った。
プールマッチを順当に3連勝すると、準々決勝ではなんと Jannie de Beer がワールドカップ最多の1試合5ドロップゴールを含む12キックを決めてイングランドを粉砕。前回全勝優勝の南アフリカは、ワールドカップ不敗記録を10に伸ばして準決勝のオーストラリア戦に臨んだ。
「1999年、南アフリカ vs オーストラリア、ワールドカップの準決勝」。このキーワードには、実は因縁があった。これに先立つクリケットのワールドカップで初優勝を狙っていた南アフリカは、準決勝でオーストラリアと当たっている。そして打撃戦の末に213-213の同点で終わり、大会ルールによりランレートで上回ったオーストラリアが決勝へ進んでいる。豪州は、そのままワールドカップ2度目の優勝を飾っていたのだ。
それから約4ヶ月、種目は異なれど同じ「ワールドカップ」を冠する大会の準決勝で、南アフリカはオーストラリアと対戦することになった。そして、やはり同様に激戦が展開される。オーストラリアの Matt Burke が7つのキックを決めると、南アフリカも de Beer のキックで追いすがり、終了間際に遂に7つ目のキックを成功させて21-21に追いつく。「同点」というキーワードまでクリケットと同様となった。しかし、ラグビーワールドカップでは同点の場合、20分間の延長戦に入る。南ア国民は雪辱を祈った。
だがしかし延長14分、オーストラリア Stephen Larkham の43mドロップゴールが決まりリードを奪われてしまう。更に Burke にペナルティゴールを決められ、南アフリカ連覇の夢は潰えた。一方のオーストラリアは、このまま決勝戦も勝利して史上初となるワールドカップ2度目の優勝。クリケットと全く同様の結果となったのだ。
| Pool-1 | 南アフリカ共和国 |
46 | - | 29 | 1999-10-03 | |
| Pool-1 | 南アフリカ共和国 |
47 | - | 3 | 1999-10-10 | |
| Pool-1 | 南アフリカ共和国 |
39 | - | 3 | 1999-10-15 | |
| 準々決勝 | 南アフリカ共和国 |
44 | - | 21 | 1999-10-24 | |
| 準決勝 | 南アフリカ共和国 |
21 | - | 27 | 1999-10-30 | |
| 3位決定戦 | 南アフリカ共和国 |
22 | - | 18 | 1999-11-04 |
2003年 第5回 オーストラリア大会
21世紀に入り、スプリングボックスの歯車は大きく狂う。それを象徴するのが、2002年11月のイングランド戦。53-3という歴史的大敗を喫しただけでなく、そのフラストレーションからかキャプテンの Corne Krige をはじめ複数の選手が、イングランドの中心選手にパンチ、ショルダーチャージ、密集での踏みつけなど暴力的な行為を繰り返してしまう無残な試合となった。狂い始めたチーム状況は容易に立て直すことは出来ず、この後もフランス、スコットランド、ニュージーランドにそれぞれ記録的大敗を重ねていく。
更にワールドカップに向けたプレキャンプで問題は続く。アフリカーナーの Geo Cronjé と有色人種の Quinton Davids が共に途中で代表を外されたが、ここに Cronjé の人種差別発言や行動があったとして、法廷闘争にまで発展する。結局 Cronjé の嫌疑は晴れるが、ワールドカップ後にコーチの Rudolph Straeuli は「チーム内に人種差別問題を起させないような環境を作れなかった」ことを理由に解雇されることになる。
そんな状態で迎えたワールドカップで戦えるはずもなく、準々決勝でオールブラックスにあっさりと敗退。彼らにとって3度目のワールドカップは、実に呆気無く終りを告げた。
| Group-C | 南アフリカ共和国 |
72 | - | 6 | 2003-10-11 | |
| Group-C | 南アフリカ共和国 |
6 | - | 25 | 2003-10-18 | |
| Group-C | 南アフリカ共和国 |
46 | - | 19 | 2003-10-24 | |
| Group-C | 南アフリカ共和国 |
60 | - | 10 | 2003-11-01 | |
| 準々決勝 | 南アフリカ共和国 |
9 | - | 29 | 2003-11-08 |
2007年 第6回 フランス大会
惨敗の第5回ワールドカップであったが、2004年に入り Jake White が新たにヘッドコーチに就任すると、途端にチームは好転しはじめる。その年のトライネイションズを全チームが2勝2敗で並ぶ大激戦の末に優勝すると、グランドスラムツアーでも2勝をあげる。スプリングボックスはIRBチーム・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、コーチの White は最優秀監督、新星 Schalk Burger は最優秀選手となった。
その後もチームは快調に勝利を重ねていくが、例えば2006年のワラビーズ戦における惨敗(49-0)など、SANZARのライバル・ニュージーランドのような絶対的な強さではなく、戦い方にムラがあったことは否めない。この理由の一端として Jake White は、人種差別への配慮から敢えて有力な白人選手を外し、有色人種のプレーヤーを入れざるを得ない場面があったことをメディアに告白している。
迎えたワールドカップ・フランス大会、今回も優勝候補筆頭はニュージーランドであった。殊に2006年は圧倒的な強さで国際試合12勝1敗。しかしその1敗を1点差で刻んだのが、スプリングボックスであった。南アフリカは、2007年に入り若干調子を落としているこの「ガラスの王者」に対抗する一番手と目されていた。
プール戦を順当に4連勝で突破すると、準決勝では今大会の「台風の目」となっているアルゼンチンを退ける。そして決勝戦、反対側の山からはオールブラックスが出てくると思われたが、豈図らんや戦前は極めて低評価であったイングランドが相手であった。組み合わせの妙や試合展開に救われての決勝進出とも揶揄されたイングランドは決勝戦も健闘したが、やはり力及ばず。南アフリカの頭上に、オーストラリアと並ぶ2度目の賜杯が掲げられた。
| Pool-A | 南アフリカ共和国 |
59 | - | 7 | 2007-09-09 | |
| Pool-A | 南アフリカ共和国 |
36 | - | 0 | 2007-09-14 | |
| Pool-A | 南アフリカ共和国 |
30 | - | 25 | 2007-09-22 | |
| Pool-A | 南アフリカ共和国 |
64 | - | 15 | 2007-09-30 | |
| 準々決勝 | 南アフリカ共和国 |
37 | - | 20 | 2007-10-07 | |
| 準決勝 | 南アフリカ共和国 |
37 | - | 13 | 2007-10-14 | |
| 決勝 | 南アフリカ共和国 |
15 | - | 6 | 2007-10-20 |









