ラグビー ルーマニア代表 (オークス)
| 世界ランキング | 18位 (2012-01-30) |
| ウェブサイト | http://www.rugby.ro/ |
| 代表チーム | The Oaks |
| 代表監督 | Serge Lairle |
| 15 | 70.45 | |
| 16 | 68.78 | |
| 17 | 65.63 | |
| 18 | 63.98 | |
| 19 | 61.24 | |
| 20 | 60.54 | |
| 21 | 60.47 |
ニックネームは「オークス」。
過去6度のワールドカップ全てに出場を果たしており、シックスネイションズに次ぐグループとしては欧州最強国と目されている。
ヨーロッパ・ネイションズ・カップなどでは上位常連だが、ワールドカップにおいては参加するたびにプール戦で1勝するのがやっとで、決勝トーナメント進出は果たしていない。
その歴史は1919年、アメリカとの最初のテストマッチに端を発する。現在世界最強国の1つに数えられるフランスの、最初のテストマッチは1924年のルーマニア戦であった。
1924年の夏季オリンピックにも参加。フランス、米国の3ヶ国で戦った。(結果は最下位の銅メダル)
1987年 第1回 ニュージーランド&オーストラリア大会
冷戦中は、他の共産国における国際スポーツ同様、ルーマニアにおいてラグビーは国威高揚の象徴として用いられた。金融機関の後押しと英才教育、トッププレーヤーは軍や警察に所属し、週に6日間は練習に充てるというプロ選手のような待遇により、ルーマニアはどんどん力をつけていく。40年代にフランスで近代ラグビーを学んだコーチが60年代後半からナショナルチームを率いるようになると、その流れは更に加速。1980年代にはウェールズ、フランス、スコットランドなどの強豪と度々接戦を演じ、アイルランドとは引き分けに持ち込んだ。更に1981年にはオールブラックスを相手に14-6と接戦を演じ、しかもそこには「不当なジャッジによる」2トライが無効とされたと言われている。国内には110のクラブが出来、選手数は12,000人以上のラグビー大国となる。
しかし、自信を持って迎えた1987年の第1回ワールドカップにおいては、プール戦でジンバブエから1勝をあげるのがやっと。国民は大きな失望に包まれた。
| Pool-4 | ルーマニア |
21 | - | 20 | 1987-05-23 | |
| Pool-4 | ルーマニア |
12 | - | 55 | 1987-05-28 | |
| Pool-4 | ルーマニア |
28 | - | 55 | 1987-06-02 |
1991年 第2回 イングランド大会
1990年代には政治・経済の悪化からラグビー連盟の運営も窮乏する。1989年のルーマニア革命ではスキッパーである Floric Murariu を含めた3名の主力選手が命を落とし、一時はシックス・ネイションズを凌ぐかと思えたルーマニアラグビーは、伸び悩むようになっていく。
そのような中で行われた2度目のワールドカップは、フィジーを下して意地を見せるも、予選プールで敗退した。
| Pool-D | ルーマニア |
3 | - | 30 | 1991-10-04 | |
| Pool-D | ルーマニア |
11 | - | 19 | 1991-10-09 | |
| Pool-D | ルーマニア |
17 | - | 15 | 1991-10-12 |
1995年 第3回 南アフリカ共和国大会
ルーマニアのラグビーユニオンは財政破綻寸前まで行っており、プロ化に対応することは不可能と思われていた。最後のアマチュア大会となる1995年は、開催国の南アフリカに善戦するも3連敗。
| Pool-A | ルーマニア |
3 | - | 34 | 1995-05-26 | |
| Pool-A | ルーマニア |
8 | - | 21 | 1995-05-30 | |
| Pool-A | ルーマニア |
3 | - | 42 | 1995-06-03 |
1999年 第4回 ウェールズ大会
プロ化に伴って、およそ200人のトッププレーヤーがフランスやイタリアを中心に海外流出。国内では審判の確保すら難しい状況となり、かつて100以上あったクラブチームは28にまで減少していた。
そのような状態で参加したこの大会だが、アメリカに27-25で勝利して、最低限の意地を見せた。
| Pool-5 | ルーマニア |
9 | - | 57 | 1999-10-03 | |
| Pool-5 | ルーマニア |
27 | - | 25 | 1999-10-09 | |
| Pool-5 | ルーマニア |
14 | - | 44 | 1999-10-15 |
2003年 第5回 オーストラリア大会
低迷の一途を辿っていたルーマニアラグビーを救ったのは、2002年に代表ヘッドコーチに就任したフランス人コーチ、Bernard Charreyre であった。大会方式の変わったヨーロピアン・ネイションズ・カップでグルジアを追いかけていたルーマニアは、2002年に入ってからの残り試合を5戦全勝で逆転し、ワールドカップへの出場を決める。
しかし大会では残念ながら3つの大敗。最後のナミビアには勝利するも、またしても予選プール敗退であった。この結果を受けて、「リトル・ナポレオン」と称されたBernardは契約を失う。
| Group-A | ルーマニア |
17 | - | 45 | 2003-10-11 | |
| Group-A | ルーマニア |
8 | - | 90 | 2003-10-18 | |
| Group-A | ルーマニア |
3 | - | 50 | 2003-10-22 | |
| Group-A | ルーマニア |
37 | - | 7 | 2003-10-30 |
2007年 第6回 フランス大会
2003-04シーズンのヨーロピアン・ネイションズ・カップはポルトガルの台頭に屈して準優勝。しかし2004年にはイタリアを破り、シックスネイションズからの初勝利を挙げる。
ワールドカップ予選を兼ねた2004-06シーズンは、グルジアと同ポイントも、得失点の差で優勝。6大会連続の出場を決めた。
大会緒戦では3年前に倒したイタリアに返り討ちにされる。初出場のポルトガルに勝利するも、残りは全敗。またしてもプール予選突破はならなかった。
| Pool-C | ルーマニア |
18 | - | 24 | 2007-09-12 | |
| Pool-C | ルーマニア |
0 | - | 42 | 2007-09-18 | |
| Pool-C | ルーマニア |
14 | - | 10 | 2007-09-25 | |
| Pool-C | ルーマニア |
8 | - | 85 | 2007-09-29 |









