ラグビー ニュージーランド代表 (オールブラックス)
| 世界ランキング | 1位 (2012-01-30) |
| ウェブサイト | http://www.allblacks.com/ |
| 代表チーム | All Blacks |
| 代表監督 | Graham Henry |
「ラグビー」はほとんど知らなくても、「オールブラックス」は聞いたことがある。そんな人も多いのでは。
ワールドラグビーの代名詞、漆黒の覇者・オールブラックスは、ニュージーランドのナショナルチームの呼称。
その名は世界中のラガーマンやラグビーファンから、ある種「特別」なものとして、憧憬や畏敬をもって語られるワールドラグビーのカリスマ。
通算対戦成績で全ての国に勝ち越している唯一のチームであり、国際試合の総勝利数でも世界最多。
オーストラリア、南アと3国で争う南半球王者決定戦・トライネイションズでは、13年のうち9回優勝。
イングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズを相手の同一ツアーで全勝する「グランドスラム」を達成すること3度。
2001年からのIRBアワードで最高チームに選ばれること4回(最多)。
IRBラグビー殿堂入りプレーヤー15名(最多)。
100年を越す栄光に彩られた歴史は、ラグビーを国技とするニュージーランド国民の誇りとなっている。
しかしその輝かしい戦歴も、ことワールドカップに舞台を限ればくすんでしまう。第1回大会こそ地元での優勝を飾ったが、その後は決勝トーナメントで足元をすくわれることが続き、栄冠から遠ざかってしまっている。そんな大舞台での弱さをして「ガラスの王者」などと呼ばれることもあり、2011年のニュージーランド大会では何としてでも2度目の優勝をはたし、王者たる姿を見せなければならない。
試合前に「Haka (ハカ)」と呼ばれるマオリ(ニュージーランドの先住民族)のウォークライを踊ることでも有名。
Hakaはマオリのウォークライ全般を指し、幾つもの種類がある。通常、オールブラックスが踊るものは「Ka Mate (カマテ)」と呼ばれるもの。2005年頃から「Kapa o Pango (カパオパンゴ)」が踊られるようにもなった。(後述)

プロ化の進む近代ラグビーにおいて、現在はヨーロッパへの人材流出に悩む状況が続く。ニュージーランドの一流選手の多くは「祖国への忠誠と、幼いころから憧れ続けたオールブラックスへの愛着」と「10倍とも言われる金銭的成功」の狭間での選択を迫られることが増えている。
国内産業の乏しい現状でスポーツビジネスのパイは限られているため、その抜群の知名度と人気を活かした「興行」的な遠征を行うなど模索が続く。海外も含めた市場拡大が急務となっている。
オールブラックスの起源
「オールブラックス」という呼び名の起源は、1905年まで遡る。
1800年代末から国際試合は少しずつ行っていたが、初めて「テストマッチ」という形で正式に国際ラグビーに挑んだのが1903年のオーストラリア戦。ここで22-3と快勝したのが、後に続く栄光の歴史の第一歩だった。
1905年、初の北半球遠征を実施。ラグビー発祥の地である「Home Nations (イングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズ)」へのツアーは全くの手探りであったようだが、そのプレースタイルに欧州は驚愕する。
フォワードとバックスの明確な分業が行われていた当時のヨーロッパにおいて、ボールを持つと全員が縦横に走り回るニュージーランドの試合運びは奇異なものであり、それ以上に驚異であった。スコットランド、アイルランド、イングランドと瞬く間に3カ国が撃破され、最後のウェールズが辛くも3-0で勝利し、辛うじて面目を保つのがやっとという有様。
このツアーが「オールブラックス」の誕生とされ、この時のメンバーは敬意を持って「the Original」と呼ばれる。
そのオリジナルの1人であるBilly Wallaceによると、当時のロンドンの新聞がニュージーランドのプレーに驚きをこめて「全員がバックスのようだ(all backs)」と記したのが、黒いジャージと相まって「All Blacks」と書かれるようになったと述べている。しかしこれには異論もあり、単に全身黒のユニフォームからそう書かれたという説も強い。
| 12 | - | 7 | スコットランド |
|
| 15 | - | 0 | アイルランド |
|
| 15 | - | 0 | イングランド |
|
| 0 | - | 3 | ウェールズ |
なお、このツアー唯一にしてオールブラックス初の敗戦となったウェールズ戦では、オールブラックスBob Deansのファールとされたトライが物議を醸す事となった。あれが認められていれば、少なくとも同点(当時のトライは3点)であった。両国のラグビーマニアは、未だにあのトライの是非を巡り、飲めば議論するのだという。
このウェールズの勝利は、翌日のthe Dairy Mirrorの一面を大きく飾る。いずれにしろ、ラグビー本場の面目はかろうじて保たれ、関係者は胸をなでおろしたことだろう。
Haka
オールブラックスといえば、試合前の勇壮なHakaもよく知られている。
これは元来はニュージーランドの先住民族「マオリ」が戦いの前に味方の士気を鼓舞し、相手の戦意を挫くために踊ったウォークライである。
部族ごとに異なったHakaを持つが、オールブラックスが主に踊るのはNgāti Toaの戦闘隊長Te Rauparahaが作ったとされる「Ka Mate」。(日本では、懐かしいこのCMで覚えている人も多いでしょうか)
ちなみに、Hakaのリーダーはゲームキャプテンとは限らず、代表メンバー中でマオリの血をひく者から選ばれる。そのため、スターティングメンバーではない選手がHakaをリードすることも、ままある。
Hakaがいつから踊られていたのかは不明だが、1800年代には既にそれに類するものはあったようである。先述した1905年のイギリス遠征でも、少なくとも緒戦のスコットランド戦と最後のウェールズ戦ではKa Mateが行われたと記録にある。
現在オールブラックスが歌っているKa Mateは特にリードがオリジナルのものとはやや異なり、次のような歌詞になっている。英語などへの翻訳がどうしても見つからなかったので、オリジナルと同じフレーズの部分だけ対訳を載せておく。
| リーダ | Ho ri te!!! | 鋭く叫べ!!! |
| Ha ho ripe!!! | ||
| Ka mau!!!! | ||
| チーム | Hī! | |
| リーダ | Rin rin a pa quia awana ri pa kia ne oki!! | |
| チーム | Akia ne oki!! | |
| 全員 | Ka mate! Ka mate! Ka ora’! | 俺は死ぬ! 俺は死ぬ! 俺は生きる! |
| Ka mate! Ka mate! Ka ora’! | 俺は死ぬ! 俺は死ぬ! 俺は生きる! | |
| Tēnei te tangata pūhuruhuru! | ここにいる毛深い男は | |
| Nāna i tiki mai! | 俺のために再び | |
| Whakawhiti te rā! | 太陽を輝かせる | |
| A upa…ne! | 上へ昇れ! | |
| A upa…ne! | 上へ昇れ! | |
| A upa ne kaupane whiti te ra!!! | 陽の光よ頂点へ昇りつめよ! | |
| Hī! | 昇れ! |
2005年には、1年以上にわたってマオリ文化の有識者と共に練り上げた新しいHaka、「Kapa o Pango」が披露された。その言葉の意味は「黒衣の戦士と銀の羊歯」。言うまでも無くAll Blacksと、その胸に輝くSilver Fernのことで、まさに「オールブラックスのために創られた」踊りである。
| Kapa O Pango kia whakawhenua au I ahau! | オールブラックスよ、国をひとつにさせてくれ! |
| Hi aue ii! | |
| Ko Aotearoa e ngunguru nei! | 鳴動する我らの国よ! |
| Au, au aue ha! | 今こそが その時だ! |
| Ko Kapa O Pango e ngunguru nei! | それこそが我らをオールブラックスたらしめる! |
| Au, au, aue ha! | 今こそが その時だ! |
| I ahaha! | |
| Ka tu te ihiihi | 我らが支配 |
| Ka tu te wanawana | その優位は偉大なる勝利となり |
| Ki runga ki te rangi e tu iho nei, tu iho nei ihi! | 敬われ 高く掲げられる |
| Ponga ra! | シルバーファーン! |
| Kapa O Pango, aue hi! | オールブラックス! |
| Ponga ra! | シルバーファーン! |
この新しいHakaに対し、ニュージーランドラグビー協会は「Ka Mateに換わるものではなく、あくまで特別な試合で使われるもの」という発表をしている。
しかしKapa o Pangoは、最後の首を刈るジェスチャーが野蛮であるなどの指摘を受け、概ね不評であった。そこには長年親しんできたKa Mateへの愛着もあったのかもしれない。協会とチームは一時、最後の首刈りの動作を、親指で胸を突き魂を表すような動きに変えたりもしたが、2008年には元に戻した様子。
Kapa o Pangoを用いた2007年のワールドカップで圧倒的優勝候補に挙げられながら過去最低の成績に終わったことから悪い評判もつけられたが、2010年のトライネイションズでも用いられた。2011年ワールドカップに優勝すれば、評判も変わることであろう。
1987年 第1回 ニュージーランド&オーストラリア大会
ニュージーランドとオーストラリア両協会の招待試合として、現在とは比較にならないほど小規模に開催された第1回大会は、ホスト国であるニュージーランドが優勝した。
大会を通じての総失点は52で、一試合あたりの平均は僅かに8.7点。43トライを挙げ、オールブラックスの両翼John KirwanとCraig Greenが6トライずつでトライ王、フライハーフのGrant Foxが126ポイントで得点王と、まさにオールブラックスの強さばかりが際立つワールドカップであった。
しかしこの僅か12ヶ月前の忌まわしい事件の際には、このような素晴らしい結末を期待するニュージーランド人は僅かであっただろう。
時は遡り1985年、オールブラックスは南アへのツアーを企画する。しかしこれは、かの悪名高きアパルトヘイトに抗議する意味からNZRFUの決定に従い、中止されていた。ところがこの翌年、「the Cavaliersツアー」という名目で南アへのラグビーツアーが不法に敢行される。現代表が30名中28人参加という、事実上の「オールブラックス」ツアーである。このツアーへの参加者は巨額の「参加費」を得ていたと噂され、未だアマチュアスポーツであったラグビー界でのモラルの問題も物議を呼んだ。(「NZとアパルトヘイト」参照)
南アとの対戦成績は1勝3敗、キャプテンを務めたAndy Daltonは顎を骨折と、散々な状態で帰国した彼らを待っていたものは、2試合の出場停止処分であった。
多くのニュージーランド人にとって、英雄たちの裏切り行為は大きな失望を呼んだ。
この出来事に続くフランス戦は、ほとんどが「初代表」の選手で戦うことになる。オールブラックス経験者はthe Cavaliersに参加しなかった若きウィングJohn Kirwan(後の日本代表ヘッドコーチ)とハーフバックDavid Kirkの2名に、再召集が2名。4人のキャップ数を合計しても僅かに19の代表を、人々は「Baby Blacks」と呼んだ。
彼らへの人々の期待は当然ながら低く、快晴のランカスターパークに集まったのはオールブラックス戦としては僅かの24,000人であった。しかしこの日の観衆は、後のラグビー史の中で小さからぬ意味を持つ試合の目撃者になる。
若武者たちは、ひたむきで献身的なプレーでボールを繋ぎ、この日が代表デビューとなるフルバックのGreg CooperとファーストファイブFrano Boticaが正確なキックを重ね、なんと18-9でフランス代表を退けてしまう。
この勝利は、怒りと失望に沈む人々の心を慰めてくれた。
そして、その勝敗以上に後に意味を持つようになるのは、この試合こそがオールブラックスの伝説的プロップSean Fitzpatrickの代表デビューでもあったことだ。あのような忌まわしい事件が、一人の英雄の出現を早める結果になったとすれば皮肉な話である。
ワールドカップでの栄冠は、このBaby BlacksからのFitzpatrickを含む4人に加え、W杯が代表デビューとなったもう一人の伝説、Michael Jonesなどの若い力と、謹慎から復帰した中堅・ベテラン陣がうまく融合した結果であった。
| Pool-3 | ニュージーランド |
70 | - | 6 | 1987-05-22 | |
| Pool-3 | ニュージーランド |
74 | - | 13 | 1987-05-27 | |
| Pool-3 | ニュージーランド |
46 | - | 15 | 1987-06-01 | |
| 準々決勝 | ニュージーランド |
30 | - | 3 | 1987-06-06 | |
| 準決勝 | ニュージーランド |
49 | - | 6 | 1987-06-14 | |
| 決勝 | ニュージーランド |
29 | - | 9 | 1987-06-20 |
1991年 第2回 イングランド大会
王者オールブラックスの2度目のワールドカップは、順風満帆とは程遠い状態で迎えることとなってしまった。
第1回大会を圧倒的な強さで勝利した後も、1988-89年はテストマッチ無敗(11勝1分)と向かうところ敵無しであった。しかし1990年に入り、キャプテンでありチームの精神的支柱であったWayne ‘Buck’ Shelfordが代表を外されたところから、雲行きが怪しくなる。前回ワールドカップでの準決勝で見せたビッグプレーをはじめ、ほぼ3年にわたり無敗のチームを支えてきたキャプテンの落選に、ファンは怒りと落胆をあらわにする。そしてそれは同年の対オーストラリア3連戦の最終戦に9-21で敗れ、テストマッチの連勝が16で止められた時に爆発した。Shelfordの復帰を望む観衆により試合場には「Bring Back Buck! (Buckを返せ!)」の横断幕が溢れかえったが、結局彼が呼び戻されることは無かった。
ワールドカップイヤーである1991年に入っても、大会直前の8月に再びオーストラリアに敗れるなど気運は上がってこない。それどころか、チームには更に頭を悩ませる問題があった。オールブラックスが誇る史上最高の呼び声も高いフランカーMichael Jonesの出場是非に関してである。
実績・実力から言えば選出は文句の無いところだが、彼は非常に敬虔なクリスチャンであり、日曜日の試合に出場することを拒否していた。発表された大会日程では、予選3試合中の1試合、そして決勝トーナメントの準々決勝、準決勝が日曜日である。特に重要な決勝トーナメントでの試合にほぼ出場できないのは大問題だが、チームは彼を参加メンバーリストに載せることを決める。それだけJonesの能力が評価されていたということだが、これによりチームは戦術面やメンタルの部分で、大きな歪を抱えてしまったようだ。
大会は、そのMichael Jonesによるトライで幕をあけた。(実は彼は第1回大会でも最初のトライをあげており、2大会連続の「大会初トライ」という珍記録を樹立した)
予選リーグは、無敵を誇ったオールブラックスとしては「辛くも」といった内容の3連勝で突破し、Jonesを欠く準々決勝もカナダを下す。しかし、ここまでであった。
準々決勝で大激戦の末に19-18でアイルランドを下したオーストラリアを相手の準決勝、この2年間での直接対決は3勝2敗と肉迫されたライバルに力負けし、連続優勝の夢は途切れた。
オーストラリアはこのまま優勝し、ニュージーランドは順位決定戦でスコットランドを下しての3位に終わる。
| Pool-A | ニュージーランド |
18 | - | 12 | 1991-10-03 | |
| Pool-A | ニュージーランド |
46 | - | 6 | 1991-10-08 | |
| Pool-A | ニュージーランド |
31 | - | 21 | 1991-10-13 | |
| 準々決勝 | ニュージーランド |
29 | - | 13 | 1991-10-20 | |
| 準決勝 | ニュージーランド |
6 | - | 16 | 1991-10-27 | |
| 3位決定戦 | ニュージーランド |
13 | - | 6 | 1991-10-30 |
1995年 第3回 南アフリカ共和国大会
ほとんどの大会を「優勝候補筆頭」の肩書きを持って臨んでいるニュージーランドにとって、この95年大会は非常に低い下馬評からのスタートであった。
92年後半から94年にかけて、チームは低迷。新たにコーチに就任したLaurie Mainsは、高齢化する代表メンバーの若返りに苦しんでいた。そのためオールブラックスの評価はオーストラリア、イングランド、南アフリカ、フランスに続く5番手と見られており、準決勝進出すら危ぶむ声もあった。
Mainsはチーム再建のため、ワールドカップイヤー直前の94年から95年にかけて、オールブラックスとしては異例のハードなサマーキャンプを行う。またセレクションでは、チームの大きな支柱であるMichael Jonesを遂にメンバーから外す決断を下す。宗教上の理由から「日曜日にはプレーしない」とする彼の選出については毎回論争になるところだが、今大会で日曜日に行われるオールブラックスのゲームはプールマッチの日本戦と、準々決勝、準決勝の3試合のみ。しかしチームは彼を帯同させない決断を下す。
こうしたMainsの思い切った決断に呼応するように、チームの歯車は良い方に回り始める。久しぶりの代表復帰を果たしたGraeme Bachopと共に、Crusadersでの彼の若きパートナーAndrew Mehrtensが代表入りし、学生ながら安定したプレーでハーフ団を支える。ルーズフォワードの新星Josh Kronfeldも目覚しい活躍を見せ、更に「あの」Jonah Lomuがタレント揃いのウイング争いを一刀両断にしてメンバー入りする。この時点ではセブンスでの実績が際立っていただけの彼だが、サマーキャンプにおけるフィジカルの凄まじさで否が応にも注目を集めることになったという。
迎えたワールドカップ本番、プールマッチにおいてMainsは全選手を最低一試合は出場させるよう配慮する。これは若い選手を雰囲気に馴れさせるだけでなく、Zinzan Brookeなど怪我明けのベテランに自信を与えることにも役立った。こうしてワールドカップ決勝トーナメントにコンディションのピークを持ってくることに成功したニュージーランドは、大会前の不安を覆す圧倒的な強さで決勝へ駒を進める。
多くのタレントに支えられた快進撃は、しかしやはり「Lomuの大会」として記憶されることになる。彼は、あまりにも規格外だった。
プールマッチでアイルランド、ウェールズの強豪2ヶ国を粉砕したのも圧巻であったが、ハイライトはやはり準決勝におけるイングランド戦であろう。「暴走機関車」は相手フルバックのMike Cattを跳ね飛ばして踏みつけ、4トライをあげて優勝候補の一角を粉砕した。ニュージーランドのテレビ放送では、看板アナウンサーのKeith Quinnが言葉を失い、「Lomu…oh…oh…」としか言えなくなってしまったという。
準々決勝のスコットランドを含めラグビーの「ホームネイション」を1大会でスイープするという偉業を成し遂げた今大会におけるオールブラックスは、「調整下手」と言われ続けるチームの歴史にあって最もコンディション調整が上手くいった時であったのかもしれない。
しかし皮肉なことに、決勝戦という目指す頂点の僅か48時間前に、チームコンディションは最悪の方向に暗転する。約半数の選手を襲った「食中毒」である。
宿泊先のホテルで起きたこの事件の原因については、陰謀説も含めて諸説ある。(第3回ワールドカップ参照) 真相は定かではなく敗者の言い訳として捉えられることも多いが、チームが食中毒により最悪の状態にあったことは確かなようだ。決勝戦では途中交代したJeff Wilsonがベンチで小さく嘔吐するようなシーンも見られる。
いずれにしろチームは、スプリングボックスの執念のディフェンスの前に、ワールドカップ史上初の延長戦を含めた100分間をノートライに抑えられ、3点の差で惜敗する。
チームを襲った不幸な事故、開催国である南アフリカを相手にした圧倒的にアウェーなスタジアム。そういった不利な条件をかき分け、今にも手の届きかかっていた2度目の賜杯は、惜しくもこぼれ落ちた。
| Pool-C | ニュージーランド |
43 | - | 19 | 1995-05-27 | |
| Pool-C | ニュージーランド |
34 | - | 9 | 1995-05-31 | |
| Pool-C | ニュージーランド |
145 | - | 17 | 1995-06-04 | |
| 準々決勝 | ニュージーランド |
48 | - | 30 | 1995-06-11 | |
| 準決勝 | ニュージーランド |
45 | - | 29 | 1995-06-18 | |
| 決勝 | ニュージーランド |
12 | - | 15 | 1995-06-24 |
1999年 第4回 ウェールズ大会
第1回ワールドカップの華々しい優勝以降、ニュージーランド国民は4年間かけて培ってきた期待を、見事に裏切られることを繰り返されることになっている。そしてこの1999年の第4回大会こそが、その最たるものであったかもしれない。
前大会、敗れたりとはいえ見事にチームを準優勝に導いた Mains が1995年いっぱいで辞任した後を John Hart が引き継ぐ。彼は第1回大会時はアシスタントコーチ、第2回は副コーチとしてオールブラックスに帯同したベテランで、その豊富な経験に期待が寄せられた。
新生ブラックスは96年を9連勝でスタート。最後にスプリングボックスに敗れるも、翌年はまた11連勝の後にイングランドと引き分け。プロフェッショナル時代にあわせて始まった南半球王座決定戦「トライネイションズ」も全勝で連覇し、最高の船出を飾った。
ところが、98年に入りイングランドを迎えて2連勝するも、そこからよもやの5連敗。一転してトライネイションズ全敗という屈辱にまみれた1年を過ごすことになる。ワールドカップ前年のこの変調に、メディアをはじめニュージーランド国民は色めき立った。
勝負の年となる99年、独立国となって初対戦となるサモアを下すと、続くフランスにも完勝。再び勢いをつけ、トライネイションズを奪還。ワールドカップイヤーを5勝1敗でまとめ、本戦へと挑むことになった。
この頃、ニュージーランド国内に無責任に膨れ上がった期待は、想像を絶するものであった。ラグビー最強国としての誇り、それを裏付ける数々の勝利、しかし何故か届かないワールドカップへの焦燥、栄光の2年間、一時的な凋落、そこからの再起… 国民の間には「悲願の優勝を!」ではなく「勝って当然」という雰囲気が蔓延する。選手達は、フロントローの3人がペイントされたエアニュージーランドの「オールブラックス機」に乗せられ、優勝パレードの企画を進めつつある協会に見送られてヨーロッパへと旅立った。
緒戦、オールブラックスの英雄 Jonah Lomu の祖国であるトンガを危なげなく下すと、続く相手はイングランド。前回大会で Lomu に完膚なきまでにクラッシュされた彼らは、度重なる怪我と病気に苦しむ暴走機関車に、再び蹂躙されることになる。「事実上の決勝戦」などと評する者もいたこの試合に Lomu の2トライなどで勝利したことで、オールブラックスの勝利は既定のものとして扱われるようにすらなる。ニュージーランド・ヘラルド紙では、この試合の翌日には「オールブラックスの決勝の相手はどこだ?」という記事を大見出しで掲載する浮かれぶりであった。
準々決勝も勝利し、準決勝フランスを前に、ニュージーランドはもちろん、世界中のラグビーファンがオールブラックスがここで消えるとは思っていなかったであろう。たとえば英国サンデー・タイムズの記者に Stephen Jones という人物がいる。彼はオールブラックス嫌いで知られており、常に辛辣な記事を発表し続けてきた。その彼をして、準決勝朝の紙上でワラビーズとオールブラックスによる決勝戦が既成事実となっているかのような記事を書いている。ワールドカップ直前のテストマッチでニュージーランドとフランスは戦い、その時は54-7でオールブラックスが圧勝していた。この雰囲気も無理のないことであったかもしれない。
試合は序盤から、オールブラックスにフラストレーションの溜まる展開。ジャッジとも噛みあわず、決して良いプレーぶりでは無かった。しかしそれでも Lomu の2トライなどで 24-10 とリードする。だが、試合の流れは徐々にフランスに傾いていき、神憑ったような仏フライハーフ Lamaison は28得点をあげる活躍。その大波に遂にニュージーランドは飲み込まれ、約束されていたはずの優勝は藻屑と消えた。
結果論的にこの敗戦を振り返った時、98年の低迷に目を向ける声は多い。実は97年に、これまでオールブラックスを支え続けてきた主力の多くが抜けてしまっている。伝説的キャプテン Sean Fitzpatrick をはじめ、Zinzan Brooke、Frank Bunce、そして翌年には Michael Jones という、選手としても精神的支柱としても、チームを支えた偉大な選手たちの引退が98年の低調の原因であり、ひいてはそれが99年、チームの歯車が狂いはじめた際に修正できる能力を失わせたのだという。
この分析は、確かに一面の真実かもしれない。引退は無論避けられないことだが、John Hart は彼らの何人かを引き止めるか、あるいは96年から早々に彼らを外してチーム作りに時間をかけるべきであったという批判は、全く的はずれなものとは思わない。
また、バックス陣の起用法にも非難が集まった。類まれなタレントが集まったバックスを活かすために Hart がとった策は、まず Lomu と新星 Tana Umaga をウイングとして起用すること。そしてそれまでウイングとして起用されていた天才 Jeff Wilson をフルバックにまわし、結果として押し出されるように Christian Cullen がセンターを担うようになった。しかし結果としてこれは Wilson にとっても Cullen にとってもベストのポジションではなく、重要なセンターラインを弱体化することに繋がってしまった。これも全くの結果論だが、後に Umaga が見せたセンターへの適性を見れば、両ウイングに Lomu と Wilson を固定し、 Cullen のフルバックに Umaga のセンターであったらどうか… これは、当時を振り返った時にニュージーランド国民誰もが想像してみたくなる誘惑である。
いずれにしろ歴史はひとつの選択しか許さず、当然のように Hart は大会後、怒涛のような非難を浴びながらヘッドコーチを辞任した。
なお、大いなる悲劇の後に待っていた3位決定戦にモチベーションが残っていようはずもなく、オールブラックスはここでも敗戦。4位で大会を終えている。Jonah Lomu の2大会連続トライ王も、ニュージーランド国民の心を慰めるはずもなかった。
果たして、オールブラックスの本当の敗因は何であったのだろうか。もちろん何かひとつに帰結させることは出来ないが、その標的となったのが John Hart であった。後にこの大会を振り返った Jeff Wilson の言葉を意訳しておきたい。
“ワールドカップにおける最大の問題は、我々が作り上げたチームの実体以上に、それが誉めそやされたことだ。それは我々のコントロールを超えて膨れ上がり、そして我々が勝てなかった時、萎んだ期待は鋭い怒りによって満たされた。”
| Pool-2 | ニュージーランド |
45 | - | 9 | 1999-10-03 | |
| Pool-2 | ニュージーランド |
30 | - | 16 | 1999-10-09 | |
| Pool-2 | ニュージーランド |
101 | - | 3 | 1999-10-14 | |
| 準々決勝 | ニュージーランド |
30 | - | 18 | 1999-10-24 | |
| 準決勝 | ニュージーランド |
31 | - | 43 | 1999-10-31 | |
| 3位決定戦 | ニュージーランド |
18 | - | 22 | 1999-11-04 |
2003年 第5回 オーストラリア大会
2003年、オーストラリア大会…これを振り返ってオールブラックスファンが想い出すものは、恐らく皆同じであろう。Carlos Spencer のパスを Stirling Mortlock がインターセプトした瞬間、そして Byron Kelleher を見下ろし、罵声を浴びせる George Gregan の顔…
前大会でも繰り返された「オールブラックス、まさかの敗戦」後に John Hart は引責辞任。代わってヘッドコーチに就いたのは、副コーチであった Wayne Smith と Tony Gilbert の2人である。しかし2000年、2001年のトライネイションズを連続して落とすなど成績は芳しくなく、01年末には早くも新体制は解散し。新たに John Mitchell 体制が発足する。
当時37歳であった青年コーチは、潜在能力を認めた若手を大胆に起用してチームを変革する。その象徴的なものが、95年ワールドカップからオールブラックスの中核として活躍し続けたフライハーフ Andrew Mehrtens から、トリックスター Carlos Spencer へのスイッチであった。堅実な試合運びが信条の Mehrtens に比べ、時に「ジェットコースター」などとも言われる Spencer の華やかで不安定なプレーは、まさに好対照である。
チーム再建はひとまず奏功し、2002年から03年にかけてニュージーランドはトライネイションズを連覇する。ワールドカップイヤーにはワラビーズに連勝し、6年ぶりにブレディスローカップを奪い返した。特に1試合目のワールドカップ会場となるシドニーでの一戦は、若き快速ウイング Joe Rokocoko の3トライなどで21-50と、ライバルを完膚なきまでに粉砕した。
こうしてチームはワールドカップへ向けて順調に歩を進めたが、フィールドの外は騒がしかった。元々、第1回ワールドカップ同様にオーストラリアとニュージーランドの共催とされていた大会運営についてである。詳細は定かでないが、権利関係で両国のラグビー協会が揉めてしまい、へそを曲げたニュージーランド協会が非協力的な態度を繰り返してしまう。遂には豪州から単独開催決議が出され、投票の結果ニュージーランドは共同開催国から外されるという、なんとも情けないハメに陥ってしまう。
国内世論とも離れたところで協会は暴走し、オールブラックスのワールドカップボイコット案まで出たようだが、当然ながら大会には出場。しかしこの経緯はニュージーランドはもちろん、オーストラリア側にも後味の悪い思いをさせてしまう。「他にやりようは無かったのか」と協会のやり方を非難する豪州ラグビー関係者も多く、ギクシャクしたまま大会は開幕した。
プール戦、オールブラックスは前評判以上の圧倒的強さを見せて1位で勝ち抜く。準々決勝ではワールドカップで一度も勝ったことのないスプリングボックスを相手に、これも完勝。そして因縁のオーストラリアが待つ準決勝へと向かう。前回王者で開催国であるワラビーズ。しかし、直前のテストマッチで完勝しているオールブラックスは自信に溢れていた。恐らく彼らには「実力さえ出し切れば勝てる」と単純に思っていたのではないだろうか。だが、ワラビーズのオールブラックス対策は完璧であった。
この時のオールブラックスは、良くも悪くも全ては司令塔 Carlos Spencer 次第のチームであった。変幻自在のパス、ラン、キックから、手足のごとく飛び出してくる Rokocoko、Doug Howlett、Mils Muliaina のバックスリーへボールを供給し、トライを量産している。この大会トライ数トップ3をこの3人で占めていることからも、その恐るべき得点力がうかがえる。そこでワラビーズは徹底的に Spencer を囲んでスペースを潰し、この飛び道具達へのホットラインを遮断する作戦をたてていた。
試合がはじまり、いつものように動けない Spencer に苛立ちが募る。そして、なんとかゲインをきってワラビーズゴールライン目前に迫った Spencer が左サイドへ大きくパスを振った時、はかったように飛び出してきた Mortlock がインターセプト。一気に逆襲のトライを決めた。これでパニックになった Spencer は、まんまとワラビーズの術中にはまる。ボールを受け取っても有機的に繋がらない。各選手も、それぞれ次のプレーがわからない。単純なミスを繰り返し、時間だけがズルズルと過ぎていった。
結局、この試合でオールブラックスがあげたトライはフォワードがパワーでねじ込んだ1つだけ。徐々に失血していくのを呆然と眺めるような感覚で、ニュージーランドのワールドカップは終わりを告げた。試合終了と同時に、ワラビーズキャプテン Gregan は接点から立ち上がり、目の前に倒れる Kelleher に向かって、こう吐き捨てた。
“Four more years boy, four more years!” (またあと4年だ小僧、あと4年!)
それはまさに、ニュージーランド国民がワールドカップの度に、絶望とともに呟いてきたセリフであった。そして、今回も。誰もが耳を塞ぎ目を背けたい、その受け入れがたい事実をぶつけられた衝撃は大きく、Gregan はこの後の投票で「我々ニュージーランド人を最も傷つけた男」に選出された。そう、また4年、なのだ。
この大会の代表は、終了後に「過去、最もポテンシャルの低いブラックスだった」と言われるようになる。為す術無く終わったワラビーズ戦や、何度か見せたスクラムの弱さなど、総じて若い選手で構成されていた故の「ひ弱さ」のようなものを感じさせることは確かにあった。過渡期のチームであったことは確かだがしかし、ここで若くして貴重な経験を積んだ若手たちの潜在能力は、後に大きく花開くことになる。大会ベストXVに選ばれた Richie McCaw と Dan Carter や、副キャプテン Tana Umaga 負傷の穴を凄まじい突進力で埋めて世界を瞠目させた Ma’a Nonu など、2011年大会でも主力となるであろう選手たちが、早くも国際舞台に名を馳せている。
| Group-D | ニュージーランド |
70 | - | 7 | 2003-10-11 | |
| Group-D | ニュージーランド |
68 | - | 6 | 2003-10-17 | |
| Group-D | ニュージーランド |
91 | - | 7 | 2003-10-24 | |
| Group-D | ニュージーランド |
53 | - | 37 | 2003-11-02 | |
| 準々決勝 | ニュージーランド |
29 | - | 9 | 2003-11-08 | |
| 準決勝 | ニュージーランド |
10 | - | 22 | 2003-11-15 | |
| 3位決定戦 | ニュージーランド |
40 | - | 13 | 2003-11-20 |
2007年 第6回 フランス大会
2003年の大会後、ヘッドコーチは John Mitchell から Graham Henry に替った。ここでこの Henry という人物について触れておこう。
彼はニュージーランドの高校や地域リーグ、スーパー12などでコーチとしての実績を積んできた、叩き上げの名将である。特に学生の育成には本人も熱意を持ち、早稲田大学にも89年にコーチとして来日している。ちなみに、この年に早稲田は大学日本一に。主将は、後に早稲田やサントリーで監督として辣腕を振るう清宮氏であった。
1998年にウェールズよりオファーがあり、当時コーチとして世界最高額となる £250,000 で就任する。ここでも彼は大きな成功をおさめた。ウェールズのメディアより “the Great Redeemer”(偉大なる救助者) と呼ばれ、国民の絶大な支持を集めるようになる。更に2001年には、伝統のブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズのコーチへ就く。これは彼らの100年を越す長い歴史にあって初めてのホームネイションズ外からのコーチであり、いかに彼の手腕が評価されていたのかをうかがい知ることができる。2002年に帰国していた彼は、憧れのオールブラックスヘッドコーチに名乗りをあげた。
オールブラックスは伝統的に、他国のナショナルチームでコーチを務めた人物を迎え入れることは無かった。事実 Henry も、ウェールズからのオファーを引き受ける際に「これでオールブラックスの夢は諦めよう」と決意してのことだったという。彼はライオンズに続いてオールブラックスでも、その手腕で歴史の重い扉をこじ開けたことになる。ワールドカップタイトルから遠ざかって久しいニュージーランド国民の期待は、いやが上にも高まった。
新生ブラックスの緒戦は、遂に世界チャンピオンとなったイングランド。これをトライレスの72-15で粉砕し、鮮烈なスタートを切る。続くトライネイションズは最下位に終わるが、全チームが2勝2敗で並ぶ中でポイント差でのもの。チームを作りながらの船出としては、悪いものではなかった。年末の欧州ツアーを、フランス戦の45-6というレコード勝利を含む全勝で初年度を終えた。
この新チームの売りは、なんといっても若き二人の新星 Richie McCaw と Dan Carter である。前回ワールドカップで世界最高レベルの実力を見せた彼らは、当然のようにオーブラックスの柱となっていく。McCawは早々に副キャプテンに指名され、2004年には弱冠23歳で世界最強チームのキャプテンを任せられる。Carterも、正確なキックと鋭いラン、何よりもゲーム全体を見渡す展開力で 2nd-five から徐々に Spencer に替わり fly-half を任されるようになっていく。
2005年、06年は、彼らを中心としたオールブラックスの、ひとつの頂点となる。05年にブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズを3連勝で彼らのプライドごと粉砕する。トライネイションズ制覇、欧州グランドスラムと、向かうところ敵なしの状態。年末のIRB表彰ではベストチーム、ベストコーチを獲得。最優秀選手には Dan Carter が選出された。更に続く06年も敗戦はトライネイションズ優勝確定後のスプリングボックス戦のみで、欧州ツアーではフランス、イングランド、ウェールズから立て続けに、アウェイチームの最多得点差記録を塗り替える勝利。今度はキャプテン Richie McCaw が最優秀選手として表彰される。
この間、「世界最強チームが2チーム作れる」と言われるほど選手層が充実してたオールブラックスは、実際に数人を除いてほとんどメンバーを固定させずに、これだけの成績をおさめる。更に Henry は、ワールドカップイヤーのスーパー14でオールブラックス選手の出場制限を要請する。主力選手の怪我や疲労の蓄積を嫌ってのことだが、これらの万全を期した起用方法が後に批判を受けることとなってしまう。
圧倒的・絶対的優勝候補として迎えたワールドカップ。その期待度は、1999年のそれを上回っていたかもしれない。何の危なげも無く全勝でプール戦を勝ち抜くと、準々決勝の相手は開催国フランス。99年の悪夢を思い出したファンもいただろうが、本気で敗戦を予想した者は居なかったのではないだろうか。
フランスはオールブラックス対策としてまず、心理戦を仕掛けてきた。ユニフォームの青を極端に濃くし、ほぼ黒と言ってもよいような色に変えたのだ。これにより、オールブラックスは薄いグレーのアウェイユニフォーム着用を余儀なくされた。試合がはじまっても、どうもオールブラックスの動きにエンジンがかからない。試合は均衡したまま、最初の事件が起きる。セカンドファイブの Luke McAlister が、理解しがたいイエローカードを受けて一時退場を命じられてしまうのだ。試合開始からジャッジに苛立っていた選手たちのフラストレーションは一気に高まる。更に終盤、フランスのアタックから途中出場の Frederic Michalak へ供給されたパスは、誰もがフォワードパスと見えた。しかし笛は吹かれず、これが逆転のトライとなる。「最強」の名をほしいままにしたオールブラックスのワールドカップは、過去最低の成績で不完全燃焼に終わった。
後に Graham Henry は、この年の「最もフェアなコーチ」という賞を受ける。受賞理由は幾つか挙げられているが、その中に「ワールドカップでのフランス戦のジャッジについて、公式には一度も不平を述べていない」というものがある。しかし、そのようなジャッジが幾つかあったところで、それでもあの時のオールブラックスがフランスに負けるはずは無かった。敗戦のひとつの理由として、モチベーションの差を挙げるファンは多い。ワールドカップのプール戦では、通常は練習試合でも対戦しないような格下の相手と連続して戦うことになる。厳しい試合に出場させず、本戦でも遙かに格下の相手から圧勝し、テンションが高まらないところで鼻先を殴られるように敗れたというのだ。
いずれにしろ、4年ごとにニュージーランド国民に繰り返される「最大の番狂わせ」によりニュージーランドは敗退。これに続いて主力選手の大量流出が始まり、隆盛を誇ったチームは空中分解する。しかし、大論争の末に Graham Henry はコーチ留任。Richie McCaw と Dan Carter も2011年大会までのニュージーランド残留を表明しており、新たな4年はもう一度、彼らに託されることとなった。
| Pool-C | ニュージーランド |
76 | - | 14 | 2007-09-08 | |
| Pool-C | ニュージーランド |
108 | - | 13 | 2007-09-15 | |
| Pool-C | ニュージーランド |
40 | - | 0 | 2007-09-23 | |
| Pool-C | ニュージーランド |
85 | - | 8 | 2007-09-29 | |
| 準々決勝 | ニュージーランド |
18 | - | 20 | 2007-10-06 |









