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JAPAN

ラグビー 日本代表 (チェリー・ブロッサムズ)

世界ランキング15位 (2012-01-30)
ウェブサイトhttp://www.rugby-japan.jp/
代表チームCherry Blossoms
代表チーム ウェブサイトhttp://www.rugby-japan.jp/japan/
代表監督John Kirwan
世界ランキング (2012-01-30)
12 ITA73.99
13 CAN72.92
14 GEO71.09
15 JPN70.45
16 FJI68.78
17 USA65.63
18 ROM63.98
 

「桜のジャージ」で世界に知られる、われらが日本代表。
ジャージの胸に咲く桜の花から、海外でもCherry Blossoms(桜)、Brave Blossoms(勇敢なる花)などと称される。その呼び名からも伝わるように、外国勢に比して小柄な日本代表が果敢にタックルを繰り返す姿と、ひたむきでクリーンなプレースタイルは海外でも好意を持って受け入れられているが、それは判官贔屓的な側面も強く、まだまだオセアニアやヨーロッパの強豪と対抗できる実力を持つには至っていない。
一方、アジアにおいては最強国であり、ワールドカップにも第1回から、ひとつしかないアジア代表の枠を確保し続けている。

ワールドカップへは前述の通り6回全て出場し、戦績は1勝18敗1分。
唯一の勝利は第2回大会で、それに先立つテストマッチでスコットランドを破るという歴史的快挙を成し遂げた宿沢ジャパンが挙げたジンバブエ戦のもの。
その後は世界との差は開くばかりとも思われたが、2007年にニュージーランドの英雄ジョン・カーワンに率いられのぞんだ第6回大会ではフィジーを相手に31-35と善戦し、更にカナダとは12-12で引き分けるなど、再び世界との距離を縮めつつある。

第9回となる2019年大会が日本で開催されることが決定。
名実共にアジアラグビー界のリーダーといえるが、それだけに地元開催では決勝トーナメント出場をうかがえるだけのポジションに上っていって欲しい。

1987年 第1回 ニュージーランド&オーストラリア大会

当時、日本でラグビーは「学生スポーツの華」として絶大な人気を誇っていた。
1982年の関東対抗戦での早明戦では国立競技場の観客動員記録となる66,999人を集め、84年に始まったスクールウォーズがラグビーブームに火をつける中、世界ではじめてのワールドカップにアジア代表として「招待」される栄誉を受ける。
日本代表は平尾や大八木といった若きスターを擁して最初のワールドカップにのぞむものの、世界の壁は高く予選リーグ3連敗で終わった。
なお、この大会で伝説となっている90m独走を含む最多タイの6トライを挙げ、ニュージーランドの優勝に貢献したジョン・カーワンが、現在の日本代表監督となっている。

Pool-1 日本 JPN 18 - 21 USA アメリカ合衆国 1987-05-24
Pool-1 日本 JPN 7 - 60 ENG イングランド 1987-05-30
Pool-1 日本 JPN 23 - 42 AUS オーストラリア 1987-06-03

1991年 第2回 イングランド大会

第1回大会の惨敗から精彩を欠き、アジア選手権では韓国にも敗れるなど低迷の続く日本代表は、1989年から宿沢広朗のもと再起をはかる。就任直後の会見で「(1ヶ月半後にテストマッチの控えた)スコットランドには勝てます」と言い放った宿沢は、徹底的なデータ収集と大胆な起用で見事28-24で勝利をおさめる。トライ数は5-1と内容的にも文句の無い内容に日本中が喝采を贈った。これはビッグ8と言われるIRBオリジナルメンバー(イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、フランス、ニュージーランド、オーストラリア、南ア共和国)からの日本初勝利であり、今のところ唯一の金字塔である。

この快挙で一気に期待の高まった宿沢ジャパンは、はじめてのワールドカップ予選(前回は招待制のため、予選は無かった)も強敵トンガを退け、宿敵韓国も苦しみながら下し、見事に出場権を手にした。
前回大会の雪辱を期す平尾を主将に2度目のワールドカップに挑む日本代表はしかし、2度は負けられないと本気になったスコットランドや、やはりビッグ8の一角であり今大会で優勝するオーストラリアに準々決勝で1点差に迫ったアイルランドを相手に、力の差を思い知らされる。
このままでは終われない宿沢ジャパンは、ジンバブエとの最終戦では大会全試合中最多となる9トライをあげての完勝をおさめる。

なお、アイルランド戦で吉田義人があげた50m超の独走トライは、今大会のベストトライ候補にノミネートされた。

Pool-B 日本 JPN 9 - 47 SCO スコットランド 1991-10-05
Pool-B 日本 JPN 16 - 32 IRE アイルランド 1991-10-09
Pool-B 日本 JPN 52 - 8 ZIM ジンバブエ 1991-10-14

1995年 第3回 南アフリカ共和国大会

再び世界との距離が縮まったかに見えたジャパンだが、かつて新日鉄釜石V7の礎を作った小藪修の元での再出発は、後に「空白の10年」と呼ばれる暗黒時代の幕開けとなってしまう。

1993年にJリーグが発足してサッカー人気が急騰したこともあり、ラグビーの若年競技人口も激減する。
そんな中で行われた第3回大会には、後に監督として東芝府中の黄金期を創り上げる薫田を主将に、3大会連続出場となるコーチ兼任の平尾、前回大会を知る若手のホープ堀越、元木、増保、エース吉田などを擁して向かう。しかし、ニュージーランド戦での145失点(W杯記録)の屈辱的惨敗を含む3連敗を喫する。確かに過去の大会を見ても最も厳しい相手との予選だったと思えるが、ここから2007年にJKジャパンが引き分けるまでの、長い連敗のトンネルが待っているのだった。

Pool-C 日本 JPN 10 - 57 WAL ウェールズ 1995-05-27
Pool-C 日本 JPN 28 - 50 IRE アイルランド 1995-05-31
Pool-C 日本 JPN 17 - 145 NZL ニュージーランド 1995-06-04

1999年 第4回 ウェールズ大会

低迷を続ける日本は1996年に始まったパシフィック・リムでも惨敗。カナダアメリカ香港、日本の4ヶ国で行われた第1回では2勝4敗の最下位。続く1997年も1勝5敗の最下位、1998年は2勝4敗の3位と、良いところなく敗戦を重ねる。

代表監督は1997年から、長年にわたり日本を支え続けた平尾誠二が就任。人気・実力を兼ね備え海外ラグビーへの造詣も深い平尾の就任に期待は集まったが、低迷への歯止めはなかなかかからなかった。しかし、代表メンバーへ主将のマコーミックや元オールブラックスのバショップ、ジョゼフらを含めた6人もの外国人を入れるなどの強化が徐々に実を結び、ワールドカップ予選ではライバル香港に完勝。台湾を134-6の大差で下すなどして4回連続の出場権を掴んだ。ワールドカップ直前の1999年には、前述のパシフィック・リムで4勝1敗の初優勝を遂げる。この大会から参加国が変わり、香港が抜けてサモアトンガフィジーなどの強豪国が加わっていた。その中での優勝をして「史上最強」などと称する声もあがり、突如として平尾ジャパンへの期待は頂点に達する。

だが、一方で協会と平尾の対立が囁かれるようになり、また、チーム内にも不協和音が聞こえてくる。外国人選手を多数加えたことで「これでもジャパンと呼べるのか」といった白けたムードも生まれる。なぜかワールドカップ出場を決めた1998年から1年の間、日本代表はこのパシフィック・リムでの2試合以外に海外遠征を行わず、全体的にギクシャクとした雰囲気でウェールズ大会を迎えることとなる。

大会は、前回同様の3連敗。奪ったトライ数は、3試合あわせて僅かに2。前半は善戦するも後半突き放される試合を毎回繰り返し、年初のパシフィック・リムでは競り勝ったサモアにも惨敗。アルゼンチンには「最少得点で勝つ」という彼らの命題を簡単に実行される始末で、大きく期待を裏切った大会となってしまった。

世界のラグビー界では1995年にアマチュア規定が撤廃されたことからプロ化が一気に促進され、南半球ではトライネイションズが開始されるなど、よりレベルの高い試合の中での進化が進んでいた。日本は距離を縮めるどころか、より大きく離されてしまっていることが浮き彫りにされたような形であった。

Pool-4 日本 JPN 9 - 43 SAM サモア 1999-10-03
Pool-4 日本 JPN 15 - 64 WAL ウェールズ 1999-10-09
Pool-4 日本 JPN 12 - 33 ARG アルゼンチン 1999-10-16

2003年 第5回 オーストラリア大会

ワールドカップ後も継続していた平尾体制は、最後まで歯車のかみ合わない印象を残しながら2000年末に「白紙に戻す」として終了した。この後は、1989年にスコットランドを破る快挙を果たした宿沢を強化委員長に招き、東芝府中の監督として定評のあった向井昭吾を監督に、次のワールドカップへと向かうことになる。

新体制直後の韓国戦では辛勝、ウェールズには惨敗、パシフィック・リムでは3位。翌2002年にはロシアに大勝。ワールドカップ予選でも、前年に苦しめられた韓国に圧勝して本戦出場を決める。ところがワールドカップイヤーとなる2003年にはスーパーパワーズ・カップでアメリカとロシアに黒星と、その強さがわからない不思議なチームであった。

この年、日本では遅ればせながら遂にトップリーグが開幕し、プロ契約選手が誕生している。プロリーグ元年を盛り上げる期待も担いながら、向井ジャパンは今回から4試合になった予選リーグへ挑んだ。

緒戦のスコットランド戦では、後半開始早々の小野沢のトライで11-15に迫るなど、大健闘といえる試合でスタジアムを沸かせる。そして更に、続く優勝候補の一角であるフランス戦でも、アンドリュー・ミラーを中心とした速い攻めと栗原の正確なGKで後半4分には19-20と1点差に追い上げ豪州の観客を総立ちにさせる、期待以上の善戦を見せた。いずれの試合も最後は地力の差を見せられ点差は開いたが、これならば続くフィジー、アメリカには勝てるかもしれないと期待を抱かせた。
結局、燃え尽きてしまったのか、無理な日程の疲れからか、その後の2試合は精彩無く敗れ、向井ジャパンは4戦全敗という成績でワールドカップを終える。しかしこの善戦は「世界の背中が見えた」と評され、「次こそは」の想いを残してくれた。

Group-B 日本 JPN 11 - 32 SCO スコットランド 2003-10-11
Group-B 日本 JPN 29 - 51 FRA フランス 2003-10-18
Group-B 日本 JPN 13 - 41 FJI フィジー 2003-10-23
Group-B 日本 JPN 26 - 39 USA アメリカ合衆国 2003-10-27

2007年 第6回 フランス大会

2003年ワールドカップ終了と同時に宿沢・向井体制は解散。世界と戦える手ごたえを得た協会は「世界8強進出対策会議」と称する代表監督の評価機関を発足させ、萩本光威を新監督に指名する。
ところが萩本ジャパンは、緒戦で韓国とのテストマッチに引き分ける不安な船出。スーパーパワーズ・カップにはなんとか勝利をおさめるも、ヨーロッパ遠征ではスコットランドに100-8、ウェールズに98-0と、相手に申し訳ないほどの記録的な惨敗をしてしまう。このあたりから、ラグビー協会の迷走ぶりが顕著になりはじめた。

スコットランド戦後に「辞表を胸に戦っている」と口にしていた萩本監督は、遠征後には「あれは冗談」と簡単に白紙撤回。監督評価機関である8強会議で監督交代を主張した向井昭吾、春口廣、清宮克幸の3氏は、逆に委員を解任されてしまう。この遠征と前後して代表のフィットネスコーチ、選手2名が相次いで繁華街でのトラブルで逮捕される不祥事が起きたが、萩本監督へは「警告」のみで事実上誰も責任を負わなかった。
その後もアルゼンチンやアイルランドなどの強豪と戦えば惨敗を繰り返し、遂に萩本は辞任を余儀なくされる。

後任を受けたのは、元フランス代表で日本代表のテクニカルアドバイザーにも就いていたジャン=ピエール・エリサルド。NECの監督であった太田治をGMに、初の外国人監督(呼称はヘッドコーチ)に日本再建の期待が託される。
協会はフランスの掲げる「シャンパン・ラグビー」がいかに日本の目指すべきものと合致しているかを力説し、ファンもその未来に期待した。が、しかし。
就任後もあまり来日しなかったエリサルドではあったが、2006年9月になんと、選手時代にプレーしていたバイヨンヌからの監督就任要請を、日本ラグビー協会に無断で引き受けてしまう。協会は日本代表への専任を要請するが、兼任を希望するエリサルドとの話し合いは平行線のまま、わずか1年での契約解除となる。

太田GMが臨時HCを兼任しつつの後任探しがはじまり、1ヶ月後に白羽の矢が立ったのが、元ニュージーランド代表のジョン・カーワン(JK)であった。選手生活の最後をNECで過ごしたことから日本のラグビーにも馴染みがあり、イタリア代表監督としてワールドカップで善戦するなど指導者としての実績も持つ。現役時代は誰もが知るオールブラックスの英雄であり、日本代表HCへの就任ニュースはNZの一般のニュースでも伝えられたという。迷走に迷走を重ねた日本ラグビー界が、こういったタイミングでJKをつかまえられたことは、ようやく巡ってきた幸運であったと言うべきであろうか。
懸案は、協会が金看板として掲げてきたフランスラグビーからの突然の方向転換ということになるが、選手たちの反応は「どうせ何も教えられていなかった」と言わんがばかりの淡々としたものであったようだ。

船出から僅か9ヶ月でのワールドカップを余儀なくされるJKジャパンだが、就任早々に掲げた「ワールドカップで2勝」「日本流」「世界一低く、速いタックル」などを合言葉にW杯予選を圧勝で突破。パシフィック・ファイブネイションズ・カップでもフィジー、サモア、トンガを相手に接戦を演じ、テストマッチでイタリアを破るなど、ようやく上昇気流に乗り始める。

そして迎えたフランス大会、中3日という厳しい日程もあり、JKは「2チーム制」という思い切った手段に出る。
1ヶ月も前から代表を「チーム・オーストラリア」「チーム・フィジー」に分け、フィジーとカナダから2勝を挙げるという戦略だ。これは言ってしまえば、どうせ勝てないオーストラリアには2軍をぶつけて主力を温存するということに他ならない。当然チーム・オーストラリアのモチベーションは高まろうはずがなく、下手をすればチームが空中分解しかねない方法だが、フィジー戦はその仲間の犠牲を無駄にしない、見事なものであった。

一進一退のシーソーゲームは、多くの怪我人や退場者を出しながら、最後は競り負けてしまう。両チームのミスの多さや、フィジーがベストで無かった点を指摘する向きも多いが、大舞台で最後の最後まで切れずに喰らいついていく精神力は、称えられて良いものだ。
しかしJKが何度も「勝てた試合だった」と悔やむように、「2勝して予選突破」を目標としていた日本にとって、この惜敗は事実上の終戦であった。続くウェールズ戦は精彩無くセカンド・ストリングス相手に完敗。カナダとの最終戦に、1991年以来の勝利を賭ける。

終始防戦一方だった日本だが、試合は僅差のまま終盤へ。12-5で時計は既に80分を超えていたが、誰もが試合終了と思ったところでカナダには不幸な反則が与えられ、日本にラストチャンスが舞い降りる。これを繋いでまわし、平が右隅にトライを決める。タッチラインから5mほどの難しい位置からのコンバージョンを大西が決め、同点に追いついたところでノーサイドの笛が鳴った。

ワールドカップでの連敗が13でひとまず止まったとはいえ、勝ったわけではない。試合後のJKのコメントにもあるように、プレーそのものもフィジー戦、カナダ戦ともに決して最高ではなかったかもしれない。しかし、萩本ジャパンでのヨーロッパ遠征惨敗からエリサルド時代の混迷を思えば、よく建て直したと言えよう。
失ってしまった3年間は大きいが、改めて2011年のワールドカップでの2勝を目指して、JKジャパンは続いていく。

Pool-B 日本 JPN 3 - 91 AUS オーストラリア 2007-09-08
Pool-B 日本 JPN 31 - 35 FJI フィジー 2007-09-12
Pool-B 日本 JPN 18 - 72 WAL ウェールズ 2007-09-20
Pool-B 日本 JPN 12 - 12 CAN カナダ 2007-09-25

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