ラグビー イングランド代表
| 世界ランキング | 5位 (2012-01-30) |
| ウェブサイト | http://www.rfu.com/ |
| 代表チーム | The Red and Whites |
| 代表監督 | Martin Johnson |
ラグビー発祥の地、ラグビー校のあるイングランドは、今日でもラグビー界の盟主として大きな影響力を持つ。
代表チームはラグビーの世界的普及と近代化に伴い、かつてのような支配的な力は無くなっている。しかしそれでもIRBランキングでは7位より下がったことはなく、ワールドカップでの成績も優勝1度、準優勝2度と北半球では最高といえる。
セント・ジョージ・クロスの白地に赤のユニフォームと、真っ赤な薔薇が特徴。本拠地 Twickenham スタジアムに響き渡る “Swing Low, Sweet Chariot” の大合唱は、ラグビー聖地の歴史と伝統、そしてプライドを体感させる。
イングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズの4国を指して「ホーム・ネイションズ」と呼ぶ。これにフランス、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランドを加えた8カ国が「IRBオリジナル」と呼ばれる最初の常任理事国で、かつて日本でもよく「八大強国」と呼ばれた括りである。今日でもIRBの重要な決議にこれらのオリジナル国は大きな発言権を持つが、その中にあってもイングランドの地位はひと際大きい。
また、ホーム・ネイションズから更に選出された選手たちで構成される “British and Irish Lions” は、ラグビー界ではある意味で代表以上の頂点とされている。ここに選ばれることも、彼らと戦うことも、世界中のラガーにとって極めて「特別」なことである。
イングランド代表のプレースタイルは、世代によって変化はあれど基本的には地味で堅実な戦い方。伝統的に強力なフォワード陣を前面に押したて、細かくボールをキープしてジッと相手のミスを待ち、キックで得点をあげるのが典型的なパターンである。そのため「世界一退屈なラグビー」などと揶揄されることもある。
真紅の薔薇
サッカーやクリケットなど、他の伝統的なイングランド・ナショナルチームがプランタジネット朝のスリーライオンを用いるものが多いが、ラグビーでは真紅の薔薇をシンボルとして使っている。この由来については謎であるが、いくつかの説が存在する。
このシンボルが使われるようになったのは、1871年に史上初めて行われたスコットランドとのテストマッチ。これはサッカーやクリケットよりも前のことである。他のスポーツと異なるのは、そもそもラグビーの方が先であったからであろう。しかし、それは薔薇が選ばれた説明にはならない。
理由のひとつとして考えられるのは、英国王室の象徴であるイングリッシュ・ローズ。ヘンリー7世(ランカスター家)とエリザベス(ヨーク家)の婚姻に際して、バラ戦争終結の象徴として作られたものだ。だが、このバラは両家の融合として描かれたものであるので、赤と白が半分ずつ塗られているはずである。しかし、実際にはエリザベス1世をはじめとして英国君主はランカスター家の血筋が継いでいるため、薔薇は赤を強く塗られることが多くなっていた。ここから、当時のラグビー協会が赤い薔薇を採用したという説。
次に、ラグビー誕生の地・ラグビー校の紋章が赤い薔薇である点。これは、創始者である Lawrence Sheriff がエリザベス女王より使用を許された赤い薔薇による。前述の通り、赤い薔薇はランカスター家の象徴である。
最後に、ランカシャー州のシンボルが赤い薔薇であること。1871年に代表選手の選考およびユニフォームやマークの選定を行った小委員会のうち、何人かのメンバーがランカシャー州リバプールやマンスターの出身であった。そこで、彼らが故郷への誇りをこめて赤い薔薇を選んだというのである。しかし、他州出身の委員も当然入っており、この理由で決定できたかどうかは疑わしい。
いずれにしろ、真紅の薔薇はイングランド代表のシンボルとして採用された。1913年の代表を撮影した写真を見ると、全ての選手の胸に刺繍された赤い薔薇は、それぞれ異なるデザインであったという。当時は試合後にユニフォームを交換するような習慣は無く、簡単に取り替えるような潤沢な資金を持っていたわけでもない。代表選手ひとりひとりに異なったデザインの薔薇が描かれ、自分だけの薔薇を胸に抱いて現役時代を戦い抜いたと言われる。
赤い薔薇は、少なくとも1920年までは継続的に使われてきた。しかし、多くのメーカーが様々なデザインのジャージを作るようになってくるにつれ、権利問題なども絡んでいつしか薔薇は姿を消してしまった。伝統の真紅の薔薇が彼らの胸に戻ってくるのは、1998年に権利を獲得していたNIKEが新デザインのユニフォームを発表した時であった。
Swing Low, Sweet Chariot
イングランドサポーターが、特に彼らの聖地 Twickenham で試合中に大合唱するのが、この「スウイング ロウ、スゥイート チャリオット」。8万人を越すファンの歌声は選手を強く後押しし、例えばオールブラックスのHakaなども客席から打ち消してしまう。
この曲は、元来は黒人霊歌である。1860年頃にアメリカ合衆国のインディアン準州に住む Wallis Willis が作曲したとされ、アフリカ系アメリカ人グループ the Jubilee Singers などにより広められた。その後も多くのミュージシャンにカヴァーされ続け、全米レコード協会(RIAA)による「20世紀の名曲」でも35位に選ばれている。歌い継がれるうちに歌詞も若干変っているようだが、元々は綿商人に虐げられた黒人奴隷たちが、地下鉄組織の手で故郷へ逃れる物語であった。なぜ、この曲がイングランドラグビーの聖歌となったのであろうか。
それは、1988年3月18日に Twickenham で行われたイングランドとアイルランドの一戦であった。この頃のイングランドラグビーは低迷著しく、ファイブネイションズでも1964年からこの年までの24年間で優勝は僅かに2度。しかも1度は73年の「全チーム優勝」という珍事の際である。そして、この日の対戦相手アイルランドには最近23試合で15敗。更に Twickenham で、この2年間にイングランドへもたらされたトライは、僅かに1つという体たらくであった。この日も、前半を終了して0-3でリードを許す展開。ファンも最早「またか」という諦めに近い状態であったのではないだろうか。
この試合には、Douai修道院から学生合唱団が招待されている。この修道院は1568年にフランスで英国人少年のための神学校として設立され、この学校のラグビーチームは伝統的に “Swing Low, Sweet Chariot” を歌ってきていた。その由来は定かでないが、故郷を強く想いながら戦う逃亡者の歌が、当時彼らの置かれていた環境とあわせて心に強く響いたことは想像に難くない。少年たちはこの日、イングランドがトライを奪う度に、チームを祝福し活気づけるために彼らの「聖歌」を歌う役目を与えられていた。しかし前半が終了しても、その機会は訪れなかった。
試合後半、それは始まった。イングランドの快速ウイング Chris Oti が、待望のトライを決めたのだ。歓喜に沸くスタジアムに響く、少年たちの Swing Low, Sweet Chariot… ナイジェリア人の両親を持つ Oti の逆転トライに、それは非常に美しくマッチして見えたことであろう。そして既にこの最初のトライから、合唱団のいる東スタンドの観客から自然に唱和がはじまっていたという。そして Oti による2つ目のトライ。合唱はすぐにスタジアム全体に拡がる。更に3つ目のトライが決まった時、会場全体が歌っているかのような大合唱が Twickenham を包んだ。試合は後半を圧倒したイングランドが35-3で圧勝。いくつかの偶然が化学反応をおこし、イングランドの地に聖歌が誕生した瞬間であった。
| Chorus: Swing low, sweet chariot Coming for to carry me home, Swing low, sweet chariot, Coming for to carry me home. |
コーラス: 静かに揺れる 愛しのチャリオット 僕を迎えに来る 静かに揺れる 愛しのチャリオット 故郷へと運んでおくれ |
| I looked over Jordan, and what did I see Coming for to carry me home? A band of angels coming after me, Coming for to carry me home. |
ヨルダン河に見たものは 故郷へと運んでおくれ 舞い降りる天使の群れ 故郷へと運んでおくれ |
| Chorus | コーラス |
| Sometimes I’m up, and sometimes I’m down, (Coming for to carry me home) But still my soul feels heavenly bound. (Coming for to carry me home) |
時には浮き沈みがあっても (故郷へと運んでおくれ) 僕の魂は天国と繋がっているんだ (故郷へと運んでおくれ) |
| Chorus | コーラス |
| The brightest day that I can say, (Coming for to carry me home) When Jesus washed my sins away, (Coming for to carry me home) |
最も人生で輝かしい日とは (故郷へと運んでおくれ) 神が全ての罪を拭い去ってくれたときだ (故郷へと運んでおくれ) |
| Chorus | コーラス |
| If I get there before you do, (Coming for to carry me home) I’ll cut a hole and pull you through. (Coming for to carry me home) |
もし先に着いたなら (故郷へと運んでおくれ) 穴をあけて君を引っ張り上げるよ (故郷へと運んでおくれ) |
| Chorus | コーラス |
| If you get there before I do, (Coming for to carry me home) Tell all my friends I’m coming too. (Coming for to carry me home) |
もし先に着いたのなら (故郷へと運んでおくれ) 僕もすぐに行くよと伝えてくれ (故郷へと運んでおくれ) |
| Chorus | コーラス |
1987年 第1回 ニュージーランド&オーストラリア大会
イングランドの記念すべきワールドカップ緒戦は、オーストラリアへの敗北という苦いものであった。元々ラグビーのアマチュアスポーツとしての精神性を重んじるイングランドとしては、ワールドカップの開催に消極的であった。オーストラリアやニュージーランドの執念を前に最後は賛成にまわるが、モチベーションの差は歴然としてあったかもしれない。
いや、実のところこの頃のイングランドは、モチベーション云々では無いチーム状態であった。80年にファイブネイションズでグランドスラムを達成するも、83年以降は2勝がやっとという状態。プール戦で格下の日本とアメリカから2勝をあげるが、準々決勝緒戦でウェールズにノートライで敗れ、早々に姿を消した。
| Pool-1 | イングランド |
6 | - | 19 | 1987-05-23 | |
| Pool-1 | イングランド |
60 | - | 7 | 1987-05-30 | |
| Pool-1 | イングランド |
34 | - | 6 | 1987-06-03 | |
| 準々決勝 | イングランド |
3 | - | 16 | 1987-06-08 |
1991年 第2回 イングランド大会
いよいよ本格的にはじめられた2度目のワールドカップ。これを主催したのは、やはりラグビー界の盟主イングランドであった。公式にはこれは欧州ファイブネイションズによる共同開催であるが、決勝戦が Twickenham で行われたことなどから一般に「イングランド大会」と言われる。これは、テストケース的な色が強かった前回大会と異なり、IRB主幹となってから最初の大会でもある。
80年代の長い低迷から抜け出し、ファイブネイションズ11年ぶりの優勝をグランドスラムで飾ったイングランドは、この「事実上の初回大会」に燃えていた。緒戦のオールブラックス戦こそ接戦の末に落とすものの、プール戦を2位で通過。決勝トーナメントを順調に勝ち上がり、決勝戦へと駒を進めた。しかしこの「順調」さに、落とし穴があった。
この頃のイングランドはバックス陣に多彩なタレントが揃っており、珍しく「トライのとれる」イングランド代表と見られていた。しかしワールドカップでは「世界一退屈」と称されるキック主体の伝統的な英国ラグビーに徹し、内外から非難を浴びている。決勝の相手であるオーストラリア・ワラビーズの David Campese も挑発的な言動でイングランドを揶揄し、ついに決勝戦で彼らはプレースタイルを展開ラグビーに変える。だが、それは相手の土俵であった。
| Pool-A | イングランド |
12 | - | 18 | 1991-10-03 | |
| Pool-A | イングランド |
36 | - | 6 | 1991-10-08 | |
| Pool-A | イングランド |
37 | - | 9 | 1991-10-11 | |
| 準々決勝 | イングランド |
19 | - | 10 | 1991-10-19 | |
| 準決勝 | イングランド |
9 | - | 6 | 1991-10-26 | |
| 決勝 | イングランド |
6 | - | 12 | 1991-11-02 |
1995年 第3回 南アフリカ共和国大会
1995年、イングランドはこの5年間で3度目のグランドスラムを達成する。国際舞台復帰のスプリングボックスも既に倒しており、下馬評としては前回大会同様に南のオーストラリアか、北のイングランドが優勝候補筆頭と見られていた。
大会が始まり、イングランドは初めてプール戦を全勝で勝ち抜く。準々決勝でオーストラリアを激戦でくだして前大会決勝戦の雪辱を果たし、今度こそはの想いを強くするイングランドに立ちはだかったのは、ニュージーランド・オールブラックスであった。この大会で大旋風を巻き起こしている、暴走機関車こと Jonah Lomu が、中でも最も凄まじいパフォーマンスを見せたのがこのイングランド戦であろう。イングランドの誇るディフェンス陣を、この怪物はかわし、払いのけ、すり抜け、踏みつけ、思うままに蹂躙していった。
この敗戦のショックから立ち直れず、イングランドはモチベーションを失った3位決定戦でも敗れる。
| Pool-B | イングランド |
24 | - | 18 | 1995-05-27 | |
| Pool-B | イングランド |
27 | - | 20 | 1995-05-31 | |
| Pool-B | イングランド |
44 | - | 22 | 1995-06-04 | |
| 準々決勝 | イングランド |
25 | - | 22 | 1995-06-11 | |
| 準決勝 | イングランド |
29 | - | 45 | 1995-06-18 | |
| 3位決定戦 | イングランド |
9 | - | 19 | 1995-06-22 |
1999年 第4回 ウェールズ大会
再び舞台を欧州に移してのワールドカップ、イングランドはまたしても Lomu を擁するオーブラックスにプール戦で敗れ、2位となる。今大会の変則ルールにより、プレーオフへ。ここでフィジーをくだし、なんとか決勝トーナメント進出は確保した。しかし、準々決勝で前回覇者のスプリングボックスと当たって敗退。存在感無く姿を消した。
| Pool-2 | イングランド |
67 | - | 7 | 1999-10-02 | |
| Pool-2 | イングランド |
16 | - | 30 | 1999-10-09 | |
| Pool-2 | イングランド |
101 | - | 10 | 1999-10-15 | |
| プレーオフ | イングランド |
45 | - | 24 | 1999-10-20 | |
| 準々決勝 | イングランド |
21 | - | 44 | 1999-10-24 |
2003年 第5回 オーストラリア大会
迎えた第5回大会で、イングランドは遂に初優勝を飾る。北半球国による初めての(そして2010年時点で唯一の)優勝である。
前回大会惨敗からの巻き返しであったが、前兆はあった。シックスネイションズでのグランドスラム達成である。過去、イングランドのワールドカップイヤーにおける同大会(ファイブネイションズ時代を含む)の順位は、87年4位、91年優勝、95年優勝、99年2位、03年優勝である。3度の優勝は全てグランドスラム達成。ピークをワールドカップにもってくる調整の上手さが目立つが、中でもやはり優勝している過去2大会ではトップ4以上をマークしていた。更にこの前年にはロンドンで南半球スプリングボックス、ワラビーズ、オールブラックスを相次いで撃破。世界の強豪から勝利を重ね、満を持してのワールドカップであった。
この時のイングランドの強さは、ロックの Martin Johnson と、フライハーフ Jonny Wilkinson という2つの巨星に支えられていた。強力無比なスクラムとラインアウトでボールをキープし Wilkinson の正確なキックで得点を重ねるスタイルは、イングランドの伝統的なものであり、その最高の完成度にあったと言えよう。
この年のグランドスラム達成後、前哨戦としてイングランドは南半球ツアーを行っている。最初のオールブラックス戦、イングランドは反則からフランカー2人がシンビンとなり、6人でのスクラムを余儀なくされる。このレベルで2人少ないスクラムなど、通常であれば相手になろうはずもない。しかし、キャプテン Martin Johnson は叫ぶ。「Get down and shove! (頭を下げて、押せ!)」 劣勢のはずのイングランドは、これに呼応するようにプレッシャーに耐え、見事に守りきったのだ。後に Johnson は、あのスクラムの際に何を考えていたのかと問われ、短く「my spine(根性)」と答えている。
続くオーストラリア戦でも Martin Johnson は、前回大会優勝時のキャプテンであったワラビーズの伝説的ロック John Eales (2001年に引退している)から「史上最高のロック」と評される活躍をみせている。この時のイングランドは、若く才能溢れる Jonny Wilkinson がクローズアップされることが多いが、この Johnson の類稀な選手としての能力と強力なキャプテンシーが、チームをまとめあげていたことは疑いようが無い。なお、彼はこの後、イングランド代表ヘッドコーチに就任している。
そして本大会。99年以来となる全勝でのプール戦突破を果たすと、シックスネイションズでくだしているウェールズ、フランスに連勝。組み合わせにも恵まれ、あれよあれよと2度目の決勝進出を果たす。相手はオーストラリア・ワラビーズ。前回大会王者で、91年決勝戦の相手、更に開催国である。決勝のシドニーはしかし、ホームのワラビーズ一色というわけではなかった。期待を膨らませるイングランドサポーター達も大挙して渡豪しており、むろん二分とはいかないまでもイングランドへも大きな声援がおくられていた。
試合は期待通りの、息詰まる激戦となる。一進一退で、試合は同点のまま延長戦へ。勝負を決めたのは、やはり Jonny のマジック・ブーツであった。延長残り40秒、狙いすましたドロップゴールがシドニーの歓声を悲鳴に変え、栄冠はイングランドの頭上に輝いた。ワールドカップ優勝チームに与えられる「ウェブ・エリス杯」は、言わずと知れた英国少年の名前から来ている。賜杯は、遂に故郷への帰還を果たすことになったのだ。
| Group-C | イングランド |
84 | - | 6 | 2003-10-12 | |
| Group-C | イングランド |
25 | - | 6 | 2003-10-18 | |
| Group-C | イングランド |
35 | - | 22 | 2003-10-26 | |
| Group-C | イングランド |
111 | - | 13 | 2003-11-02 | |
| 準々決勝 | イングランド |
28 | - | 17 | 2003-11-09 | |
| 準決勝 | イングランド |
24 | - | 7 | 2003-11-16 | |
| 決勝 | イングランド |
20 | - | 17 | 2003-11-22 |
2007年 第6回 フランス大会
前回覇者として連覇を目指すべきイングランドであるが、万全であった前回とチーム事情は全く異なっていた。絶対的なキャプテン Martin Johnson を含め、多くのベテラン勢がワールドカップ優勝後に代表を退き、チームの再構築に苦しむであろうことは4年前から言われていたことである。”Daddy Army”と呼ばれ既に高年齢化が進んでいた代表の新陳代謝は不可避であった。
シックスネイションズでも振るわず、前回優勝国としては非常な低評価でのぞんだワールドカップ。プール戦でも不安は的中し、南アフリカに36-0という屈辱的な敗戦を受ける。辛くも決勝トーナメントに進んだものの、優勝候補の一角オーストラリアとの対戦を前に、前回決勝戦の再現を期待する声はほとんどあがらなかった。ところが、ここでよもやの番狂わせが起きる。
運もイングランドに味方した。準々決勝の別の組では、優勝候補最有力であったオールブラックスが開催国フランスにまさかの敗戦。大方の予想であったワラビーズ対オールブラックスの準決勝は、イングランド対フランスによって戦われることになった。フランスも、開幕戦でアルゼンチンに敗れるなど決して今大会の本命では無い。直前のシックスネイションズで負かしている相手に、若きイングランド代表に「次もいける」との思いが生まれたのも当然であろう。
決勝は、プール戦で惨敗したスプリングボックス。ツキに恵まれてここまできた感のあるイングランドを「ここまでだろう」と評する声は多く、やや白けた決勝戦となってしまった感は否めない。だが、イングランドは大方の予想以上に健闘して南アフリカに喰い下がる。最後は地力の差が出て力尽きるが、前回王者の名に恥ない戦いぶりであった。決勝トーナメントでの平均失点11.3に、低評価に甘んじず貫いたひたむきなディフェンスを感じたい。
| Pool-A | イングランド |
28 | - | 10 | 2007-09-08 | |
| Pool-A | イングランド |
0 | - | 36 | 2007-09-14 | |
| Pool-A | イングランド |
44 | - | 22 | 2007-09-22 | |
| Pool-A | イングランド |
36 | - | 20 | 2007-09-28 | |
| 準々決勝 | イングランド |
12 | - | 10 | 2007-10-06 | |
| 準決勝 | イングランド |
14 | - | 9 | 2007-10-13 | |
| 決勝 | イングランド |
6 | - | 15 | 2007-10-20 |









