ラグビー オーストラリア代表 (ワラビーズ)
| 世界ランキング | 2位 (2012-01-30) |
| ウェブサイト | http://www.rugby.com.au/ |
| 代表チーム | Wallabies |
| 代表監督 | Robbie Deans |
ワールドカップでも2度の優勝(南アフリカと並んで最多)を誇る、世界最強国のひとつ。
そのワールドカップ誕生時には、生みの親とも言える働きかけをした。
ニュージーランド、南アフリカと共に南半球最強を争うトライネイションズを形成している。特に隣国ニュージーランドとは積年のライバルであり、1931年からずっと両国の対戦では「ブレディスロー・カップ」が賭けられている。この試合は2009年に日本でも開催され大きな話題を呼んだ。なお、南アフリカとは2000年よりマンデラ・チャレンジ・プレートを賭けている。
ユニフォームは黄土色のようだが、意味するものとしては金。国家にうたわれている “Golden Soil”(黄金の大地)から来ており、サッカーなどでも代表のチームカラーになっている。
ワラビーズの由来
豪州に広く生息する有袋動物であるワラビーをニックネームに持つ。
これは1900年初頭にニュージーランドがメディアから「オールブラックス」と呼ばれるようになったことに刺激を受け、オーストラリア代表も何かニックネームを持つべきとして決められた。公式には1908年の英国・北米ツアーで使われるようになったとされるが、国内ではもう少し前から使われていたとの話もある。
また、代表チームは「ラビッツ」と呼ばれることもあったが、土着の有袋類を脅かす外来種であるウサギは害獣と見られており、これはチームに拒否されている。
当初「ワラビーズ」とはツアーに出るナショナルチームのみに使われる呼称であり、国内で戦う場合は、単に「インターナショナル」と呼ばれ、分けられていた。また、漠然と「ワラビーズ」と呼ばれるのではなく、大きな世代交代を堺に「ファースト・ワラビーズ」「セカンド・ワラビーズ」と順に名付けられ、報酬面でもインターナショナルよりもワラビーズの方が大きかったようだ。この呼ばれ方は1980年代の「エイス・ワラビーズ(第8期ワラビーズ)」で終りを告げ、以降は代表チームを全て「ワラビーズ」と呼ぶようになっている。
ちなみに「ラグビー・リーグ」の豪州代表は「カンガルーズ」。言うまでもなくオーストラリアを象徴する有袋動物である。両者はワラビーズの呼称が定まった直後の1909年に対戦しており、結果は29-26でカンガルーズの勝利であった。
1987年 第1回 ニュージーランド&オーストラリア大会
欧州勢をツアーで度々下し、IRB8大強国の一角としての地位を充分に確立していたオーストラリアであるが、最強国と呼ぶにはやや足りない成績が続いていた。特に隣国ニュージーランドには苦戦が続き、1932年に始まったブレディスロー・カップは1978年までに行われた19回で僅かに2勝である。しかしそのブレディスロー杯で1979年と80年に2連勝したあたりから、チームは黄金時代に入っていく。
1984年には欧州ツアーでホームネイション(イングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズ)を下してチーム史上初のグランドスラムを達成する。4試合で100得点は英国ツアーチームとしては最多で、SHの Mark Ella は史上初めて同一ツアーで全チームからトライを挙げた。
1986年のブレディスローカップではキャバリアス問題に揺れるニュージーランドのBaby Blacksから13-12で先勝。フルメンバーが戻った2戦目は逆に12-13で敗れるも、最終戦を22-9で勝利して6年ぶりに賜杯を取り戻した。この最終戦は、ワラビーズのニュージーランドでの初勝利でもあった。
こうして上り調子で迎えた記念すべき初のワールドカップ。共催国であり最大のライバル・ニュージーランドを倒しての大会に優勝への期待は膨らんだが、準決勝でフランスに敗退。3位決定戦でもウェールズに届かず、優勝を飾ったオールブラックスとは対照的な結果に終わってしまう。
この惨敗の原因に、ヘッドコーチ Alan Jones と主力選手の確執を挙げる向きは多い。1984年のグランドスラムツアーで大活躍した Mark Ella は同年に引退しているが、彼は「もしヘッドコーチが Jones でなければ、あのタイミングで引退しなかったかもしれない」と述べている。また、ハーフバックで次期ワラビーズキャプテンとなる Nick Farr-Jones との間にも問題があった。
ワールドカップ後 Jones は解任。Bob Dwyer が後を引き継いだ。
| Pool-1 | オーストラリア |
19 | - | 6 | 1987-05-23 | |
| Pool-1 | オーストラリア |
47 | - | 12 | 1987-05-31 | |
| Pool-1 | オーストラリア |
42 | - | 23 | 1987-06-03 | |
| 準々決勝 | オーストラリア |
33 | - | 15 | 1987-06-07 | |
| 準決勝 | オーストラリア |
24 | - | 30 | 1987-06-13 | |
| 3位決定戦 | オーストラリア |
21 | - | 22 | 1987-06-18 |
1991年 第2回 イングランド大会
1989年に23年ぶりとなるブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズ・ツアーがオーストラリアを訪れ、ワラビーズは先勝したものの、続く2戦を落とす。新任の Dwyer はここで、フォワードの強化などの課題を見つけてチームの再建を進めていく。1987年から3年間全敗だったニュージーランドにも、この2年は2勝3敗と肉薄。チームは徐々に勢いを回復していった。
そして第2回ワールドカップ、ワラビーズは雪辱を期して迎える。
プール予選最大の敵は最後に当たるウェールズと見られたが、それ以前の2戦でアルゼンチン、サモアに思わぬ苦戦を強いられる。これは今回も危ないかと思えば、ウェールズには大勝。サモアが直接対決でもウェールズをくだしているため、決勝トーナメントには豪州とサモアが進む若干の番狂わせとなるプールであった。
そして準々決勝、敵地ダブリンでの歴史に残るアイルランドとの一戦。David Campeseの華麗な2トライと、Nick Farr-Jonesの負傷で途中からキャプテンを任された Michael Lynagh の正確なキックでリードしたオーストラリアの楽勝かと思われた試合は、アイルランド Ralph Keyes のペナルティキックと後半に立て直した粘りのディフェンスを前に終盤もつれ、大きなドラマを呼ぶ。ワラビーズリードの15-12で、試合時間は残り5分を切る。アイルランドは自陣ゴールライン手前のスクラムから大きく展開すると、Jack Clarke からのオフロードパスを受けた Gordon Hamilton が 40m を走りきって逆転トライ(当時のトライは4点)。満員の大観衆は興奮し、フィールドへ駆け下りてハミルトンを抱きしめるファンも現れた。難しい位置からのコンバージョンも決まり、15-18。しかし試合はこれでも決しなかった。時計は80分を過ぎインジュアリ・タイムへ。最後の攻撃にかけるワラビーズは、左サイドのスクラムから右へと展開し、パスを受けた Campese がアイルランドディフェンスを切り裂く。執念のタックルがしがみつくも、ギリギリで Campese の手を離れたボールは、走り込んできた Lynagh の胸に。ゴール右隅に飛び込む再逆転のトライは、5分前の熱狂とは対照的にダブリンを不気味なほどに静まり返らせた。
劇的な逆転勝利で準決勝へ進んだワラビーズは、遂に宿敵オールブラックスと対戦する。直前のテストマッチでも破っているライバルを相手にオーストラリアは果敢に攻め、前半を13-3とリードして折り返した。後半は守りを固めて逃げ切り、オールブラックス連覇の夢を打ち砕いて堂々と決勝へと駒を進める。
決勝戦は、またしても敵地となる Twickenham での対イングランド。フォワードでゴリ押しするイングランドの退屈なラグビーと、バックスへ展開するワラビーズの華麗なラグビーの衝突と目されていたが、決勝戦でイングランドは突如戦法を変えてランニングラグビーを試みる。これは戦前の David Campese によるマスコミを使っての挑発に乗ったのだとも、当日試合会場を訪れるエリザベス女王をはじめとした観衆の目を気にしたのだとも噂されるが、いずれにしろ付け焼刃のプレースタイルは、勢いにのるワラビーズには通じなかった。
南半球ラグビーは既に欧州を凌駕しており、オーストラリアこそが最強である。それを全世界注目の大会で証明したい。
ワールドカップを発起したオーストラリアの願いは、宗主国でありラグビー母国であるイングランドを決勝で退けるという最高の形で果たされた。プレイヤー・オブ・トーナメントには6トライをあげて優勝に大きく貢献した David Campese が選ばれ、凱旋帰国した彼らを待っていたのは盛大なパレードであった。
| Pool-C | オーストラリア |
32 | - | 19 | 1991-10-04 | |
| Pool-C | オーストラリア |
9 | - | 3 | 1991-10-09 | |
| Pool-C | オーストラリア |
38 | - | 3 | 1991-10-12 | |
| 準々決勝 | オーストラリア |
19 | - | 18 | 1991-10-20 | |
| 準決勝 | オーストラリア |
16 | - | 6 | 1991-10-27 | |
| 決勝 | オーストラリア |
12 | - | 6 | 1991-11-02 |
1995年 第3回 南アフリカ共和国大会
前回大会覇者にして1年半ほど国際試合で全勝と、優勝候補筆頭としてのぞんだ3回目のワールドカップ。しかし連覇の期待むなしく、準々決勝敗退という期待を大きく裏切る結果となってしまった。
この大会の開催国は、南アフリカ共和国。アパルトヘイト問題からワールドカップ初参加となる彼らは「影の最強国」とも称されており、2年前に久しぶりに行われたワラビーズとのテストマッチでも2勝1敗。12-19、28-20、19-12といずれも接戦で、そのモチベーションの高さからもオーストラリアに次ぐ有力な優勝候補と見られていた。
プールマッチの緒戦は、大会のオープニングマッチともなるそのスプリングボックスとの一戦となった。強力な優勝候補同士による開幕戦は、モラルに上回る南アフリカの勝利。この試合がそのまま、その後の大会の流れを決めてしまったと言ってもいいかもしれない。敗れたワラビーズはプールマッチは2位で抜けるも、決勝トーナメント最初の試合でイングランドに早々に敗退。この大会2勝2敗と、最悪の成績に終わる。対照的にディフェンディング・チャンピオンを緒戦で下したスプリングボックスは勢いにのり、一気に優勝まで駆け上がる。
| Pool-A | オーストラリア |
18 | - | 27 | 1995-05-25 | |
| Pool-A | オーストラリア |
27 | - | 11 | 1995-05-31 | |
| Pool-A | オーストラリア |
42 | - | 3 | 1995-06-03 | |
| 準々決勝 | オーストラリア |
22 | - | 25 | 1995-06-11 |
1999年 第4回 ウェールズ大会
屈辱の95年ワールドカップ後、プロ化していくワールドラグビーの中でもワラビーズは波に乗り切れなかった。Greg Smithをコーチに新時代へ乗り出すも、ブレディスローカップでは95年から97年までの3年間で7戦全敗。1996年より始まったトライネイションズも2年間で8戦して、ホームで僅かに2勝したのみと低迷は続く。
しかしそんなドン底状態も、98年に Rod Macqueen が Smith に代わってコーチに就任した頃から急上昇する。この年のブレディスローは一転して、28-7の過去最多得点差を含む3連勝。トライネイションズこそスプリングボックスとの直接対決に連敗して譲るも、テストマッチ13戦でこの2敗のみ。続くワールドカップイヤーも7戦5勝と、好調な流れで本戦に突入する。
プールマッチは、勢いそのままに3連勝。総失点わずか31と、絶好のスタートをきる。準々決勝で開催国のウェールズを下すと、準決勝では前回緒戦で土をつけられた南アフリカとの対決となった。向こう2年間でワラビーズが喫した4つの敗戦中、3敗はスプリングボックスによるもの。しかし2つは1点差による惜敗で、実力は伯仲していた。
試合は、前の試合でドロップゴール5つを含む12キックでイングランドを粉砕した南アフリカ Jannie de Beer と、オーストラリア Matt Burke の両ブーツによるキック合戦で進んでいく。そして終了間際に de Beer のキックで21-21とスプリングボックスが追いつき、因縁の対決は延長にもつれ込んだ。この、世界を代表するマジック・ブーツ対決の決着は、しかし意外な主役の登場にさらわれることになる。後に日本のリコー・ブラックラムズでも活躍するワラビーズの若き司令塔 Stephen Larkham である。延長14分、彼の放った48mのドロップゴールにより、スプリングボックスのワールドカップ不敗記録は10で止められた。Larkhamのドロップゴール成功は、なんと国際試合初。ワラビーズのキャプテン John Eales は、彼の意図を悟った瞬間には「止めろ!」と叫んだという。
ワールドカップ初のトライレスゲームを制したワラビーズは、決勝戦をフランスに楽勝。史上初めてワールドカップで2度目の賜杯を掲げたチームとなった。
なお、このワールドカップ最終日となった11月6日は、オーストラリアが立憲君主制から共和制へ移行するかどうかを問う国民投票の行われる重大な日でもあった。移行が過半数を占めれば、オーストラリアはイギリス連邦から離れることになる。これは同時に、エリザベス女王が豪州の国家元首でなくなることも意味した。そしてこの日のトロフィ授与はエリザベス女王より。結局投票結果は現状維持が54%を占めたが、これは立憲君主制が支持されたというよりも、移行後の大統領選出方法への異論によるものと言われている。引き続き国家元首として戴くことになった女王からの授与式を、豪州国民はどのような想いで見つめたのであろうか。
| Pool-5 | オーストラリア |
57 | - | 9 | 1999-10-03 | |
| Pool-5 | オーストラリア |
23 | - | 3 | 1999-10-10 | |
| Pool-5 | オーストラリア |
55 | - | 19 | 1999-10-14 | |
| 準々決勝 | オーストラリア |
24 | - | 9 | 1999-10-23 | |
| 準決勝 | オーストラリア |
27 | - | 21 | 1999-10-30 | |
| 決勝 | オーストラリア |
35 | - | 12 | 1999-11-06 |
2003年 第5回 オーストラリア大会
ワールドカップ連覇の余韻を駆り、2000年にはトライネイションズ初優勝。2001年にも連覇を果たすと、ブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズにも2勝1敗で初めて勝利する。黄金時代を築き上げたヘッドコーチの MacQueen と キャプテン John Eales のコンビは、この後ほどなく引退する。そしてそれぞれ代わったコーチ Eddie Jones とキャプテン George Gregan のコンビが、新時代を牽引していく。(このコンビは、後にサントリー・サンゴリアスで再現されることになる)
また、2000年代に入るとプロ化に伴なう金銭的充実により、ラグビーリーグから Mat Rogers や Wendell Sailor、Lote Tuqiri といった有力な選手の移籍が相次ぐ。 こうして世代交代は急速に進み、自国開催のワールドカップへ向けて準備は整っていく。しかしやはり転換期の歪は避けられず、2002年にはトライネイションズ陥落。5連覇していたブレディスローカップもワールドカップ直前に失い、やや不安の残る状態での本戦突入となった。
しかし本拠地でのワールドカップに燃えるワラビーズは、そんな不安をよそに開幕から快調なスタートを飾る。開幕戦で南米の雄アルゼンチン・プーマスに完勝すると、続く格下のルーマニアとナミビアを90-8、142-0と圧倒。最後のアイルランド戦は苦戦したものの、4戦全勝でプールマッチを堂々の1位で通過する。
準決勝は、宿敵オールブラックスとの対戦。この試合にかけるワラビーズの意気込みは、非常に高かった。そもそもこの大会は、第1回同様ニュージーランドとの共催となる予定で進められていた。しかしニュージーランドラグビー協会の非協力的な姿勢と不条理な権利要求、更にはIRBとの確執が深刻化し、遂にはオーストラリアが単独開催決議案を提出。足を引っ張られた豪州と、大会ボイコットの声まであがっていたニュージーランドの間には、永年のライバル国という以上の緊張感が存在した。
とはいえ、直前の7、8月に行われたブレディスローカップではオーストラリアが連敗。苦戦が予想されたが、ワラビーズのオールブラックス対策は完璧であった。攻撃の起点であるフライハーフ Carlos Spencer を徹底的に囲んでパスの供給を絶ち、苛立った彼の不用意なパスをインターセプトして一気のトライから流れをつかむと、終始ゲームをリードして見事に勝利した。キャプテンの Gregan は試合終了のホイッスル後、対面の Byron Kelleher を “Four more years boy, four more years!” と嘲り、失意のニュージーランド国民を大いに傷つけた。
そして決勝。相手は1991年の初優勝時と同じくイングランドであった。一進一退の緊迫した試合は、同点のまま延長に突入。史上初のワールドカップ連覇、独走となる3度目の戴冠を願うホームの大歓声は、しかしイングランドの天才キッカー Jonny Wilkinson のドロップゴールによって悲鳴に変えられた。
新時代も続くかと思われた栄光は僅かなところですり抜け、エリスカップは初めて北半球へ持ち去られた。
| Group-A | オーストラリア |
24 | - | 8 | 2003-10-10 | |
| Group-A | オーストラリア |
90 | - | 8 | 2003-10-18 | |
| Group-A | オーストラリア |
142 | - | 0 | 2003-10-25 | |
| Group-A | オーストラリア |
17 | - | 16 | 2003-11-01 | |
| 準々決勝 | オーストラリア |
33 | - | 16 | 2003-11-08 | |
| 準決勝 | オーストラリア |
22 | - | 10 | 2003-11-15 | |
| 決勝 | オーストラリア |
17 | - | 20 | 2003-11-22 |
2007年 第6回 フランス大会
ワールドカップ後の2005年は、ワラビーズにとって厳しい年となった。この年のラスト9試合で8敗は歴史に残る惨敗。ワールドカップ準優勝国の不甲斐ない戦いに、Eddie Jones と George Gregan は厳しい批判に晒された。結果、Jones はこの年限りで解雇される。
翌2006年からは John Connolly の指揮に代わる。イングランド、アイルランドをホームで連続撃破するも、オールブラックスには3連敗。しかしスプリングボックスを49-0で下すなど、徐々にたて直しながらも不安定な戦いぶりが続いた。続く2007年も状況はあまり変わらず、気勢の上がらないままワールドカップに突入してしまった。
結果はそのままに、プール戦こそ危なげなく突破したものの、準々決勝で下馬評の低いイングランドにまさかの敗退。第3回大会以来の最低成績となってしまった。なお、オーストラリアが「イングランド戦でワールドカップが終わる」のは、その第3回大会も含めてこれで4度目。91年は決勝でくだしているが、それ以外の3度はイングランドに敗れてワールドカップを去ることになっている。ワールドカップにおける「天敵」になってきたようだ。
この大会をもって、永きにわたってワラビーズを支えてきたハーフコンビ George Gregan と Stephen Larkham が代表引退(後に両名とも日本のトップリーグでプレー)。ヘッドコーチの Connolly もチームを去った。ワラビーズのまたひとつの時代が終わり、新たな世代交代へと突入していくことになる。
| Pool-B | オーストラリア |
91 | - | 3 | 2007-09-08 | |
| Pool-B | オーストラリア |
32 | - | 20 | 2007-09-15 | |
| Pool-B | オーストラリア |
55 | - | 12 | 2007-09-23 | |
| Pool-B | オーストラリア |
37 | - | 6 | 2007-09-29 | |
| 準々決勝 | オーストラリア |
10 | - | 12 | 2007-10-06 |









