ラグビー アルゼンチン代表 (ロス・プーマス)
| 世界ランキング | 7位 (2012-01-30) |
| ウェブサイト | http://www.uar.com.ar/ |
| 代表チーム | Los Pumas |
| 代表監督 | Santiago Phelan, Fabia'n Turnes |
国旗と同様、薄い水色と白のストライプジャージに身を包み、「ロス・プーマス」の愛称で知られるアルゼンチン代表。
ラグビー後進のアメリカ大陸にあって図抜けた最強チームというだけでなく、近年では世界最強国のひとつとして胸を張って数えられる。
地理的にも他の強豪国から隔離されているが、選手やコーチの交流面でも同じことが言え、そのプレースタイルも独自の進化を遂げてきた。欧州やオセアニアでは、各国の特徴に違いはあれど総じてディフェンスシステムの完成に注力され、最早キックの多用やルール変更でないとつき崩せないところまで突き詰められつつある。対してアルゼンチンではスクラム力・キック力・精神力・走力といった個々/チームの個別のスキルを鍛え上げることで総合力を積み上げているようだ。これは言ってみれば、世界の強豪達が将棋の戦術を研究し尽くしている間に、アルゼンチンは斜めにも動ける飛車や最初から成っている歩を開発していたようなものであろうか。結果としてプーマは、完成されたシステムを力で度々喰い破っている。
アルゼンチンはこのような独自の育成方法を変えていくつもりは現在のところ無いようで、ヘッドコーチも伝統的に他国から招かない方針を採っている。最近ではむしろ逆に、たとえば2007年のワールドカップまでプーマスの指揮をとった Marcelo Loffreda が英国 Leicester Tigers のコーチに招聘されるなど、頭打ちを感じている古豪国がアルゼンチンの指導者を求めるようなケースも出てきている。
また、かねてより南半球のクラブ選手権スーパー14へのチーム派遣が噂されていたが、2012年からはなんとトライネイションズに参加することが大筋で決まっている。(スーパー14に関しては、次回の拡張ではアルゼンチンチームはまだ参加しない)
これにより相互の戦術研究や対策が更に進められることが期待され、それは若干の閉塞感がある近代ラグビー界にとってプラスに作用するだろう。
ジャガース?
アルゼンチンチームのニックネームは「ロス・プーマス」であるが、彼らのシャツや協会のエンブレムに描かれている猫科の動物は実は Yaguareté (アルゼンチンに棲息するジャガーの一種)である。
プーマにはエンブレムのような斑点は無く、そもそもアルゼンチンには棲息していない。(写真右がPuma、左が Yaguareté)
これは、1965年の南ア遠征時にチームを紹介した現地報道記者の勘違いによるものと言われている。それまでニックネームのようなものの無かったチームを、エンブレムを基に(間違えて)「Los Pumas」と表記。結局その愛称はそのまま定着してしまい、アルゼンチン協会も変わらずにジャガーを描きつつ、プーマスのニックネームを受け入れている。
歴史
1873年がアルゼンチンラグビーユニオン初の試合が英国移民により行われた。これ以前にも国内で遊び的にラグビーは行われていたが、変則的なルールで、20人でプレーしていた。国際ルールに対応して15人でのプレーに変わるのは、これより少し後の1877年であった。1899年4月には、五月雨式に国内にあった運営団体を整理し、リバープレート・ラグビー選手権を開催。首都ブエノスアイレスに4チームが誕生した。
1910年に初の国際試合が行われる。相手はイングランド代表に数人のスコットランドプレーヤーを加えた「英国連合」。ブエノスアイレスでの記念すべき国際デビュー戦は、28-3で敗れた。1927年にはイギリス諸島連合の遠征を受ける。4つのテストマッチを含む9試合を戦うが、各試合30点差以上をつけられての全敗。しかし、商業的には大きな成功をおさめた。更に1932年にはジュニア・スプリングボックスに2連敗する。1936年にはイギリス諸島がアイルランドを再訪。テストマッチ1試合を含む10試合を、前回同様に完勝していった。この10試合でアルゼンチンがあげた得点は僅かに9。ラグビー先進国との差は果てしなく大きかった。
その1936年、イギリス諸島に惨敗を繰り返した直後に、アルゼンチンは初の遠征に出る。相手は隣国チリで、これに連勝。2年後には逆にチリを国内に迎え、返り討ちにした。1949年にはフランスを迎え、2連敗するもいずれも僅差。依然として欧州勢の遠い背中も、徐々に近づいている感も与える。
1951年、汎アメリカンゲームにおいてラグビー南米トーナメントが開催される。アルゼンチンはウルグアイを62-0、ブラジルを72-0と圧倒し、チリとは13-3と接戦になるも、3連勝で優勝する。翌1952年にはアイルランドXVをブエノスアイレスに迎えての2連戦。緒戦は6点差で敗れるが、続く2戦目は3-3で引き分ける。これは非テストマッチであり勝利したわけでも無かったが、世界八大強国からの初めての快挙に国中が大いに沸いた。ちょうど宿沢ジャパンがスコットランドに勝利したときのイメージであろうか。しかし1954年のフランスによるツアーは49年同様に連敗する。
1956年になり、ペルーとウルグアイに連勝。だが、これに先立つオックスフォード&ケンブリッジの大学代表には初黒星。更に隣国のチリにも土をつけられた。やや不安を抱えての第2回南米トーナメントが1958年に開かれ、ウルグアイに50-3、ペルーに44-0で勝利。チリにも14-0でリベンジし、連続優勝を飾った。また、翌年にはジュニア・スプリングボックスが再訪。今度は14-6、20-6で連勝し、成長を見せた。
1960年、フランスの3度目のブエノスアイレスツアーで3試合を戦い、プーマスは今回も勝利をあげることは出来なかった。しかし南米トーナメントでは翌61年のモンテビデオ、64年のサンパウロで共に全勝優勝。無敗で4連覇を達成し、南米の覇者としての揺ぎ無い実力を見せつけた。65年にはローデシアと南アフリカ共和国をツアー。この時に、前述の通り「プーマス」のニックネームが与えられた。そしてこの頃から、欧州の強豪といえどアルゼンチンへの遠征は強いプレッシャーを伴なうものになっていく。68年のウェールズに対しては1勝1分で、遂に勝ち越し。69年のスコットランドにも緒戦を20-3と勝利し、2戦目も3-6と惜敗。「ラグビー不毛の地」とも呼ばれた南米に、新たな強国が育ちつつあることを実感させる。
70年代に入り、アルゼンチンは更に積極的に対外試合を繰り返す。71年に2度目の南アフリカツアー、73年には初の欧州遠征、74年は4度目のフランス来訪と、毎年のようにビッグマッチで揉まれていく。76年には再び欧州遠征を行い、敵地でウェールズに1点差と肉薄。同年、遂にニュージーランドXVをアルゼンチンに迎えるが、これは完敗。しかし77年には、遂にフランスと18-18で引き分け、更に78年には欧州遠征でイングランドと13-13の引き分け。79年、初のニュージーランド遠征ではローカルクラブや学生代表を相手に6勝2敗と勝ち越し。同年オーストラリアを国内に迎え、五分の成績でシリーズを終える。
この70年代の快進撃を支えた要素は大きく2つ。世界的な戦術のトレンドがスクラム重視になっていったことに、伝統的に強力なフロントローを擁するアルゼンチンが上手く対応できたこと。そして後にIRBの殿堂入りを果たすラグビー史上最高のフライハーフのひとり Hugo Porta の登場あった。71年に代表デビューした彼は、すぐに頭角をあらわし代表を牽引する。その活躍に呼応するようにアルゼンチンの威名は高まり、遂にはIRBトップティアへ数えられるようになった。
1987年 第1回 ニュージーランド&オーストラリア大会
80年代に入っても勢いは増すばかりで、フランス、イングランド、オーストラリアといった強豪を次々と撃破する。そして85年、遂にはオールブラックスとも21-21で引き分ける。この試合では前述の伝説的フライハーフ Porta が4つのペナルティと3つのドロップゴールで全得点を叩きだす活躍を見せた。
こうして当然のごとく招待された記念すべき第1回ワールドカップに、プーマスは「最低でも準決勝」との自信をもって挑む。ところが緒戦で当たった「フィジアン・マジック」を前にチームは翻弄され、よもやの完敗。2戦目でイタリアからワールドカップ初勝利をあげるも喜べるはずはなく、ホスト国でこの大会を優勝するニュージーランドにも敗れて予選プールで大会を後にする。
この大会をもって、チームの快進撃を支え続けた Hugo Porta が36歳で引退(90年に一時的に現役復帰するが)したのを筆頭に、続く数年で多くの経験豊富な選手が代表を去っていく。ラグビーワールドカップの幕開けは、アルゼンチンにとってはひとつの時代の終りとなった。
| Pool-3 | アルゼンチン |
9 | - | 29 | 1987-05-24 | |
| Pool-3 | アルゼンチン |
25 | - | 16 | 1987-05-28 | |
| Pool-3 | アルゼンチン |
15 | - | 46 | 1987-06-01 |
1991年 第2回 イングランド大会
70年代初頭から80年代半ばにかけてのプーマスの華々しい活躍は、ワールドカップ時代に入りすっかり影をひそめてしまう。急速に世代交代が進んだため若い選手ばかりとなり、国際大会でも負けが続いた。慌てた協会は代表引退した Porta を9一時的に復帰させたりもするが、機能しない。そうして不安なまま挑んだ2度目のワールドカップは、プール3連敗という無残な成績で終わる。
| Pool-C | アルゼンチン |
19 | - | 32 | 1991-10-04 | |
| Pool-C | アルゼンチン |
7 | - | 16 | 1991-10-09 | |
| Pool-C | アルゼンチン |
12 | - | 35 | 1991-10-13 |
1995年 第3回 南アフリカ共和国大会
肉薄し、一時は並んだかとも思えた欧州やオセアニアの強豪達との距離は、すっかり遠のいてしまった。93年には日本が、アルゼンチンを当面の目標と定めて初めてのツアーを行う。これは2連勝で退けるも、プーマスの弱体化は明らかであった。国内でも、徐々にセブンスの方へ比重を置いていくような流れもできてくる。
そんな中で迎えた南アフリカ大会だが、初回大会で倒したイタリアにも競り負けて3連敗。気がつけば3大会で1勝のみと、ワールドカップでの成績は日本と同じであった。しかし全敗といえど、特にその強力なフォワード陣は注目を集める。プロップの Patricio Noriega や、フッカーの Federico Méndez は世界レベルのプレーヤーとして賞賛された。
この大会終了後、ワールドラグビーはプロフェッショナル時代に突入する。そして…大会で活躍した前述の2人のようなスター選手たちは、アルゼンチンを後にして海外に移籍していくこととなる。
| Pool-B | アルゼンチン |
18 | - | 24 | 1995-05-27 | |
| Pool-B | アルゼンチン |
26 | - | 32 | 1995-05-30 | |
| Pool-B | アルゼンチン |
25 | - | 31 | 1995-06-04 |
1999年 第4回 ウェールズ大会
プロフェッショナル時代に入り、スーパーラグビーのブランビーズに移籍した Patricio Noriega は、なんとそのままワラビーズのジャージを着てしまった(当時は、現在のような1選手1代表の縛りは無かった)。これは、プロ化による移籍を「海外のトップリーグで揉まれることで、選手層の底上げに繋がる」とポジティブに捉えていた人たちにとっては、大きなショックであった。
しかし、ようやくチームの支柱となってきた次 Porta 世代のベテランと Gonzalo Quesada のようなプロフェッショナル時代の若手が融合し、4度目のワールドカップで過去最高の成績を残す。
プール戦は、ウェールズ、サモア、日本との同組。日本にとって屈辱ながら、残るチームによる三つ巴の戦いと言われていた。今大会は初めて採用されたプレーオフルールで、アルゼンチンと日本の最終戦を前にプーマスの置かれた状況は簡単に言って次のようなものであった。
- 69点以上とっての勝利 – プール1位で決勝進出
- 48点以上68点以下での勝利 – プール2位でプレーオフ進出、スコットランドと対戦
- 47点以下での勝利 – プールベスト3位でプレーオフ進出、アイルランドと対戦
- 敗北 – (恐らく)プール敗退
相手関係から”3″を選択したいアルゼンチンは、その命題通り、守りを固めてキックを中心とした最小得点で日本をくだす。
そして自ら選択したアイルランドとのプレーオフ、アルゼンチンは大接戦を制して4点差で勝利する。ここでもプーマスは素晴らしいディフェンスでアイルランドにトライを許さず、7つのPGと1つのDGに相手をおさえる。逆に自分たちも1トライに封じられるが、若きフライハーフ Quesada がコンバージョンを含めた8つのキックを決めた。
こうして念願の決勝トーナメント進出を果たしたアルゼンチンは、準々決勝でフランスに敗れて力尽きるも、久しぶりに世界へ存在感を示した。Quesada は大会を通じて 102 得点をあげ、得点王を獲得。雌伏の時の続いたプーマスは、ゆっくりと目覚め始めた。
| Pool-4 | アルゼンチン |
18 | - | 23 | 1999-10-01 | |
| Pool-4 | アルゼンチン |
32 | - | 16 | 1999-10-10 | |
| Pool-4 | アルゼンチン |
33 | - | 12 | 1999-10-16 | |
| プレーオフ | アルゼンチン |
28 | - | 24 | 1999-10-20 | |
| 準々決勝 | アルゼンチン |
26 | - | 47 | 1999-10-24 |
2003年 第5回 オーストラリア大会
前回以上の結果を残したいプーマスは、伝説の Porta 時代にセンターとして活躍した Marcelo Loffreda を2000年からヘッドコーチに迎え、再出発する。彼は海外に散る代表選手達を短期間でまとめるため、軍隊でのサバイバル訓練に選手を送り込むなどユニークな手法を取り入れた。その甲斐あってか、2003年にはワールドカップで敗退させられたフランスに連勝。更に前回王者のスプリングボックスに1点差とするなど、80年初頭を思い起こさせる強力なチームを作り上げる。
そうして期待を込めて迎えたオーストラリア大会だが、予選プール最終戦で前回プレーオフでくだした因縁のアイルランドと対戦。1点差で涙を飲み、再びプール敗退となった。しかしこの敗戦は、多くの人に力負けとは捉えられなかった。
前回の複雑なプレーオフルールが不評で、今大会から1プールを5チームで戦うようになった予選リーグ。これまで3試合だったプール戦が、4試合に増えることになる。アルゼンチンはこの4試合を、わずか2週間の間にこなす日程を押し付けられた。近代ラグビーにおいて、これはあまりにも無茶なスケジュールであり、対戦相手のアイルランドが同じ4試合を4週間で戦ったのとは全く対照的であった。そしてこの不公平な日程は、IRB常任理事国であるアイルランドとの「政治力」の差であると言われたのだ。
期待はずれの結果に終わったとはいえ、多彩なキックと強力なフォワードで怒涛のように押し進むアルゼンチンラグビーは、世界中のファンから好意的に受け入れられた。
| Group-A | アルゼンチン |
8 | - | 24 | 2003-10-10 | |
| Group-A | アルゼンチン |
67 | - | 14 | 2003-10-14 | |
| Group-A | アルゼンチン |
50 | - | 3 | 2003-10-22 | |
| Group-A | アルゼンチン |
15 | - | 16 | 2003-10-26 |
2007年 第6回 フランス大会
前回大会で決勝トーナメント進出はならなかったとはいえ、プーマスに悲観は無かった。目に見えて実力をつけているアルゼンチンは、フランス無敗の地マルセイユで初めての苦杯を飲ませるなど、欧州強豪国と完全に対等な試合を繰り広げる。多くの主力選手が海外でプレーする関係から、代表とは名ばかりでメンバーが揃わないこともあり、そのような時には大差で敗れるケースもあった。しかしその逆のケースもあり、最たるものが2005年5月のカーディフであろう。
この時、プーマスはニュージーランド遠征から帰還したブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズと対戦。25-25で引き分けたのだ。プーマスは、実に代表の25人を欠く「3軍」レベルのメンバーであった。一方のライオンズも、オールブラックスに完膚なきまでにたたきのめされた後のセカンド・チョイス。モチベーション面でも、必ずしも高かったとは言い難い。しかし、引退した選手まで引っ張り出さざるをえなかったアルゼンチンと、2軍とはいえ歴史と伝統あるホームネイションズから選出されたライオンズとは、本来比べるべくもない。更に同点劇は8分間という異例の長さのインジュアリ・タイム中に Jonny Wilkinson のペナルティキックから生み出されたものであり、実質的にアルゼンチンの勝利と言って差し支えない。なお、それを証明するようにマン・オブ・ザ・マッチもアルゼンチンから選出されている。それは誰あろう、「引退した選手」 Mauricio Reggiardo であった。
この後もフル代表でスプリングボックスやスコットランドに勝利するなど、彼らの成長は疑いようも無かった。2006年にはイングランドの聖地 Twickenham で、前回ワールドカップ・チャンピオンを撃破。スタジアムは大きなブーイングに包まれた。
こうして始まった6回目のワールドカップにおけるプーマスの躍進を、フロックと見るファンは最早ひとりも居なかったであろう。期待は、遂に現実となる。
アルゼンチンの新時代を告げるこの大会、オープニングマッチは奇しくも、開催国フランスとアルゼンチンの一戦であった。下馬評も二分されたこの試合、「死の組」と呼ばれたプール戦のみならず、大会の行方すら左右する注目の戦いである。全世界が注目する中、プーマスは効果的なキックと堅いディフェンスで前半を17-9で折り返す。後半はなかなか得点チャンスが無い中で辛抱強くディフェンスを固め、遂に17-12で逃げ切った。今大会の主役が、自国開催に悲願の初優勝をかけるフランスではなく、牙を研ぎ澄ませたジャガーであることを高らかに宣言した瞬間であった。
その後も破竹の勢いで勝ち進んだアルゼンチンだが、準決勝で充実のスプリングボックスに敗れ去る。南アフリカはこのまま優勝し、決勝の相手はイングランドであった。直前のテストマッチで完勝している相手だけに、このアルゼンチン vs 南アフリカが事実上の決勝戦であったとも言われた。
更にプーマスは、3位決定戦でオープニングゲームの相手・フランスと再び対戦する。因縁めいたこの対戦は、アルゼンチンの圧勝。最後まで引き立て役となってしまった開催国を尻目に、非IRBオリジナルとして初のトップ3入りを果たした。これに伴ってIRBランキングも3位まで上昇。遂に、8大強国に完全に牛耳られていたラグビー界の牙城を、南米の雄が突き崩したことになる。
| Pool-D | アルゼンチン |
17 | - | 12 | 2007-09-07 | |
| Pool-D | アルゼンチン |
33 | - | 3 | 2007-09-11 | |
| Pool-D | アルゼンチン |
63 | - | 3 | 2007-09-22 | |
| Pool-D | アルゼンチン |
30 | - | 15 | 2007-09-30 | |
| 準々決勝 | アルゼンチン |
19 | - | 13 | 2007-10-07 | |
| 準決勝 | アルゼンチン |
13 | - | 37 | 2007-10-14 | |
| 3位決定戦 | アルゼンチン |
34 | - | 10 | 2007-10-19 |









