バーバリアンの誇り(前編): 創造的オープンラグビー
スポーツに求められるのは「魅せる」ことか「勝利」か – ラグビーとて、この命題から自由ではいられない。殊にプロフェッショナル化が進むにつれ、皮肉なことにこの対立は深刻化する。
だがここに、この難題から解き放たれた特別なチームが存在する。
「the Barbarians」
バーバーズの愛称で知られる彼らは「創造性あふれるオープンラグビーの醍醐味」を掲げ、幾多の強豪国と、そのスタイルを貫いて闘い続けてきた。
ただ1度の例外を除いては… (続きを読む…)
背番号「F」と「J」
1983年4月30日、John Player Cup の決勝戦は大いに盛り上がっていた。賜杯にあと一歩まで登りつめたのは Bristol と Leicester。イングランドを代表する2人の名フライハーフ Stuart Barnes と Les Cusworth を擁する両チームの対決に、国中が注目した。
これは現代であれば「No.10対決」とでも書かれるところかもしれない。フライハーフ(=スタンドオフ)の背番号が10であることは、ラグビーファンなら誰でも知る常識である。しかしこの日、2人が背中につけていたのは「10」ではなく、それぞれ “F” と “J” の文字であった。 (続きを読む…)
パリ, 狂熱の元旦(後編): 恢復する傷跡
1913年の元日にパリでつけられた大きな爪痕は、第一次世界大戦という更に大きく深い傷によって抉り取られたかに見える。終戦から2年、人々は戦後の融和 – それは後になれば一時的な休戦に過ぎなかったわけだが – に向けて、再びスポーツという平和な戦争を楽しむ余力を取り戻しはじめていた。
1920年、戦後最初のファイブネイションズ緒戦は7年ぶりのフランス対スコットランドで、またしても元日のパリであった。否が応でも前回の対戦を思い出させる形の両国の対戦は、災禍から目を背けるのではなく、真正面から向き合うことを強要する形で実現されたことになる。 (続きを読む…)
パリ, 狂熱の元旦(前編): 快挙と暴動
「フランスのラグビーファンはイカれてる」
これはフランスがラグビーの国際試合に参入してきてから、合言葉のように英国ジャーナリストの間で使われてきた言葉であった。殊に1910年からファイブネイションズとなった大会にフランスが参入してからは、そのイカれぶりは更にヒートアップする。
何より協会やメディアを悩ませたのは、彼らが – その熱狂ぶりとは裏腹に – ラグビーの複雑なルールを、よく理解していないことでもあった。 (続きを読む…)
美女とラグビー
女子ラグビーワールドカップをはじめ、セブンスシリーズ、シックスネイションズ、五輪競技化など、ラグビーの近代化に伴い女性によるラグビーも一般的になってきてる。
しかし比較的最近までは、真剣にラグビーをプレーする女性というのは、ほとんど存在しない状況であった。「女子ラグビー」といえばチャリティーなどでの客寄せとして色物的に行われるのが常で、そこにラグビーの醍醐味を期待するような観衆は皆無であったろう。
写真は1974年、ロンドンで撮影されたものである。 (続きを読む…)
地獄の女たち、蛮人退治
今週末から開始される女子ラグビーワールドカップにちなんだ、女子ラグビーに関する物語…ではなく、”The Ladies from Hell” と呼ばれた屈強な男達のストーリー。
時は1964年、フィジー代表は初の欧州遠征を行う。
それまで、彼らは専ら積年の宿敵であるトンガやサモア、あるいはオセアニアラグビーをリードするニュージーランドやオーストラリアといった近隣国との試合経験しかなく、北半球国との対戦自体が初めてであった。
裸足に伝統的なグレーのスカートという姿で空港に降り立った彼らを、欧州メディアは “The Ladies from Hell” と呼んだ。 (続きを読む…)
NZとアパルトヘイト(3/3): 傲慢な騎士たちの憂鬱
“The Springboks Tour“から4年後にあたる85年、ニュージーランドラグビー協会はオールブラックスの南アフリカ共和国遠征を計画する。しかしこれは、反アパルトヘイト派の弁護士による協会憲章に矛盾するとの訴えを受け、法廷闘争となった。結果として高等裁判所はツアーの中止命令を出し、計画はキャンセルされた。
ところが一部のマネージャー達は、この「興行」をあきらめなかった。翌年、企業と提携して遠征費を作り、ラグビー協会とは別の「あくまでプライベートな催し」として、南ア遠征を決行してしまう。便宜上「キャバリアーズ」(The Cavaliers)と名づけられたチームは、しかし実質的には「オールブラックス」であった。 (続きを読む…)
NZとアパルトヘイト(2/3): 晴れ、ときどき小麦粉
前回の「黒いユニオン・ジャック」で、背景にある大まかな流れを見てきた。今回は、そんな不穏な空気の下で行われた1981年のスプリングボックスによるニュージーランドツアーの様子を振り返りたい。
五輪をボイコットしたアフリカ諸国や、HARTなど国内の反アパルトヘイト活動家達の突き上げも厳しさを増す中、南アフリカ代表・スプリングボックスによるニュージーランド遠征が企画される。ニュージーランド政府は「政治とスポーツを混同すべきではない」というポリシーの下に、またしてもこれを了承。当然ながら大論争が巻き起こった。 (続きを読む…)
NZとアパルトヘイト(1/3): 黒いユニオン・ジャック
映画「インビクタス」に関する話題を未だに目にすることがある。アパルトヘイト撤廃後の民族融和という偉大なテーマが描かれている。スプリングボックス(南アフリカ・ラグビー代表)が数々の苦難を乗り越え、ワールドカップの賜杯を掴む最後の強敵として立ち塞がるのが、ニュージーランド・オールブラックスである。
この大会に於いてもスプリングボックスとオールブラックスは「スージー事件」など幾つかの因縁を作るが、両国のアパルトヘイトを巡る関係は更に深く、入り組んだものになっている。今回は、あの95年に到る長い苦難の道の一部を、ニュージーランド側の視点から少し見てみたい。 (続きを読む…)
五輪ラグビーはじめて物語
今を遡ること1世紀以上、オリンピックではじめてラグビーがプレーされたのは、1900年にパリで開かれた夏季五輪の際である。
近代オリンピックの父と呼ばれるピエール・ド・クーベルタン男爵(Pierre de Coubertin)が国際オリンピック委員会(IOC)を設立し、最初のオリンピック大会をアテネで開いたのが1886年。それから14年を経て開催された第二回大会で、ラグビーは初めて行われた。
クーベルタン男爵はスポーツが精神の育成に極めて有益であると信じており、およそ全てのスポーツを愛していた。そしてその中で特に好んでいたのが、ラグビーだという。オリジナルの五輪大会に存在しなかったラグビーが第二回にして正式種目化したのは、多分に彼の情熱によるところである。 (続きを読む…)









