[ニコラス・プエタ] 克己のラグビー魂
彼が話し終えた時、小さな講堂に集まった少年・少女たちの瞳は、一様に興奮の熱気を帯びていた。
彼は現在、アルゼンチンの小さなクラブラグビーの選手であり、スポーツに特化した旅行代理店の社員であり、モチベーショナル・スピーカーとしても世界各地で講演を行っている。
男の名前は、ニコラス・プエタ(Nicolas Pueta)。2007年にはIRBより表彰を受けた選手だ。しかし、そんな彼の名をアルゼンチン代表やトップクラブのリストに、見つけることは出来ない。
人生最大の決断
ニコラス・プエタは1983年10月20日、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに生まれた、生粋のポルテーニョである。父ダニエルは国内で活躍したラグビー選手で、母は体育教師というスポーツ一家の長男であった。
後に「ニコ」の愛称で呼ばれる少年は、しかし生まれつき身体にハンデを背負っていた。右脚に比べて明らかに小さな左脚は、ほとんど成長することが無かったのだ。
やんちゃなニコは、動きまわることが大好きな子供だったという。そして、スポーツを観ることも楽しみにしていた。父親の影響からか、最も好きなのはラグビー観戦。この頃のニコにとってのヒーローは、スコットランド代表の名フルバック、ギャビン・ヘイスティングスであった。目を輝かせながら将来は彼のようなラグビー選手になりたいと無邪気に話すニコに、彼の両親は最大限の愛情で治療費を捻出した。
しかし、幾度もの手術は幼いニコにとって辛く苦しいものだった。3度目の手術では身体への負担が大きすぎて、術後1年間は歩くことも出来ない状態になってしまったという。
ニコは9歳になった時、後に振り返って「ここまでの人生では、最大のものだった」という決断をする。一切の治療を、もう止めるというのだ。彼は両親に叫んだ。
『自分は、こういう風に生まれてきたんだ。だから、このままで生きていくんだ!』
あるいはそれは、苦しい治療から逃れるための、幼い拒絶だったのかもしれない。だが、20歳の時にニコは当時の決断を次のように振り返っている。
『あの時、自分はもうスポーツの楽しさを知っていて、(あのままでも)自分が何でも出来ると思っていた。だから、自分でそれを選んだんだよ。今でも治療を永遠に拒否するつもりはないけれど、現状を充分に楽しんでいるよ。』
はじめてのラグビー
ニコは6~7歳の頃にはラグビーに興味を持ち、プレーしたがっていた。しかし、彼の両親や主治医は危険過ぎると判断して、水泳や体操、バスケットボール、サッカー(ゴールキーパー)などを勧めたという。抜群の運動神経と努力で、そうしたスポーツも楽しんでいたニコだが、ラグビーへの想いは捨て去ることが出来なかった。それどころか、そうした他の競技を続けることはラグビー選手になる夢から遠ざかることだという焦りすら感じていたという。
そして長い練習と説得の期間を経て、ニコは15歳の時に初めて念願のフィールドに立つ。
周囲の心配を他所に、彼には最初から自信があったという。確かに自分には、他の少年たちに比べて脚が1本少ない。でも、それはその分、もう片方の脚や腕の力が強いということだ。ニコは普段の練習ではつけている義足を他の選手に怪我をさせないよう外し、「樹木よりも固くて強い」と自慢する右脚で飛び跳ねながら楕円のボールを追いかけ、何度もタックルした。
充分にプレーできる自信を得たニコは、すぐに友人たちの多くがプレーしている地元のサン・アンドレスに加入する。やがて、彼のポジションはフランカーに固定された。ニコの特性は、長距離を駆けてステップを切るバックスよりも、密集付近の短い距離で何度もタックルをするフォワードの方が適していた。それに、ラインアウトでの高いジャンプ力と上半身の膂力はチームにとって強力なオプションにもなる。そして彼はもちろん、スクラムにも参加する。また、彼は非常にタフで、1度フィールドに入るとなかなか交代したがらないのだという。
こうして憧れだったラグビー選手になったニコだが、彼の幼少期のヒーローはいつもバックスの選手だった。あるアルゼンチンメディアが「やっぱり、フォワードは無骨で、バックスの方がイカしてる?」と尋ねた際、ニコは大笑いしながら「いいや、自分は今フォワードだけど、イカしてるだろ?」と応えている。彼が交代したがらないのは、フィールドに立っているのが楽しくて仕方ないからでもある。
世界へ
旅が好きだったニコは、サン・アンドレスでラグビーをしながら通訳の専門学校に通う。そして卒業と同時に住み慣れたアルゼンチンを離れ欧州へ旅だった。
これには切掛があった。折しも2007年ワールドカップ・フランス大会が開催され、ニコはそのボランティア・スタッフに選ばれたのだ。数少ないアルゼンチン人スタッフとして1ヶ月半にわたり大会運営に関わった彼は、祖国アルゼンチン代表プーマスの大活躍を見届ける。プーマスは開幕戦で開催国のフランスを破ると、そのまま準決勝まで進む快進撃。優勝する南アフリカに敗れるも、3位決定戦で再びフランスを下し、過去最高位で大会を終えたのだ。
彼にとって夢のようなワールドカップは、しかしこれで終わらなかった。大会終了後に開かれる表彰式で、ニコは自分が「Spirit of Rugby」を贈られると知らされる。この賞は、フィールドの内外でラグビーの魂を体現した選手やコーチ、あるいは運営者、クラブチームなどに授与される。ちなみに、この2年前の受賞者は「ラグビーは少年を最も早く大人にし、大人にいつまでも少年の魂を抱かせる」という名言でも知られる、元フランス代表キャプテンのジャン・ピエール・リブであった。ニコの驚きと喜びは、いかほどであっただろうか。授賞式は正装が求められる。Tシャツにジーンズしか持っていなかったニコは、慌てて近所のできるだけ安い店で、スーツ一式を揃えたという。
授賞式には、まさにキラ星のようなスター選手が揃っていた。彼に賞を手渡すのは、今大会でアルゼンチン躍進の原動力となったひとり、フェリペ・コンテンポーミである。ニコが壇上に呼ばれる直前、会場のスクリーンには彼を紹介する映像が流された。片脚でフィールドに立ち、果敢にタックルする彼の姿を観た会場からは驚きのため息が漏れ、やがて総立ちでの賞賛へと変わった。そこにはアルゼンチンの英雄アグスティン・ピチョットや、ニコの憧れだったギャビン・ヘイスティングスの姿も含まれていた。
この後、ニコは英国に渡りウィットリー・ベイのローカルクラブでプレーする。1シーズンを終えると、次はオランダリーグにも少しの間参加した。そして2009年、サン・アンドレスに戻ってきている。
ラグビーの魂
モチベーショナル・スピーカーという仕事について、彼はこのように話している。
『自分のことを話すなんて、正直なところ気が進まなかったよ。なんだかそれって、傲慢な感じがするじゃないか。それに自分は、結局は好きな事をやっていただけのことなんだ。だけど、そう、チームメイトやライバルチームの選手、ラグビー協会など、皆が「何故やらないのか」と訊くんだよ。それで考えたんだ… 自分の根っこにある考え方や哲学を、聴いてくれる人たちの環境にあわせて異なった角度で考え、話してみたら面白いかもしれないって。いつも同じ事を話す人の言うことは、はじめて聴いても退屈なものだからね。』
ニコは小学生から企業の経営者に至るまで、スペイン語と英語を使って様々な角度から彼の人生と考えを話す。それは相手に語りかける作業でもあり、自分自身と対話することでもあるのだろう。
旅行会社に就職し、講演も行う多忙な中、ニコは変わらずラグビーも続けている。彼は子供の頃を振り返り『自分はラグビーを諦めようと思ったことは一度も無い。それは、自分を諦めることと同じだ。』と話した。その想いは、今も続いているのだろう。
彼が世界中のラグビー関係者から讃えられた「ラグビー魂」の根本に位置するものは、次の言葉に顕れているように思う。世界のラグビー選手はトップクラブに入り国の代表としてワールドカップで戦うことを目標としていると思うが、ニコにとっての目標も同じなのか、あるいは異なるものだったのかという問いに対する応えだ。
『最初、自分にとっての夢は、まずラグビーのフィールドに立つことだった。それが叶った今、目標は、前の試合での自分を超えることだよ。どのチームでプレーするかは、二の次だ。』
彼と同じくスピリット・オブ・ラグビーを受賞したジャン・ピエール・リブは、先に紹介した彼の名言にこう続けている。「私がラグビーから学んだことは、人を制圧することではなく、人と共に生きることだ。だから…ラグビーは素晴らしい」。相手と競い合うスポーツでありながら、あくまで自分自身と戦う克己の心。それこそが、ラグビーの魂なのかもしれない。あるいはアマチュアリズムの懐古主義と笑われるかもしれないが。
ニコは先の言葉に続けて、次のように話した。
『自分は、試合途中から出場することが多いんだ。でも、時にはスタートから出られることがある。実際、最初からほとんどの時間をフィールドに居られるのは、ものすごく楽しいよ。そうでなければ、果たして自分の出番が来るのかどうか、ヤキモキしながら試合を見なければならないからね。だけど、自分がそれに相応しくないのにスターターに選ばれるのはイヤだ。しっかりと見極められて、選ばれたいよね。』
それは、大企業の重役などをも前に自分のことを話す立派な「大人」が、リブの言うように「少年の心」でラグビーを楽しむ姿に他ならない。だからきっと… ラグビーは素晴らしいのだ。
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-- Posted by nao58








