[ジョージ・ネイピア] マオリの月に照らされて
ラグビーファン、殊にオールブラックス好きであれば、一度はその名前を聞いたことがあるだろう。
「ジョージ・ネイピア (George Nepia)」
有り余る才能を持つ天才フルバックは、ニュージーランド(特にマオリの間)で最も人気のあるラグビー選手のひとりだ。
若くして「世界最高」の勲章を手にし、幾分ロマンチックな物語で彩られた彼の人生は、決して単純な輝きで満ちているわけではなかった。
貧しかった少年時代
ジョージ・ネイピアは、1905年4月25日に、ホークスベイのワイオラで生まれた。ニュージーランド代表が史上初めて欧州へ遠征し、「オールブラックス」の呼称を得ることになる年である(ただし、後に彼は実は誕生年は1908年であったと主張している。仮にそれが本当なら、後述するInvinciblesツアー時の年齢が、とんでもないことになってしまうが…)。
両親は、共にニュージーランド原住民族であるマオリの家系であった。彼らはジョージが生まれて早々に離婚しており、共にすぐに再婚した。継母は彼に愛情を向けず、辛い幼年時代をすごしていたようだ。やがて彼は家を出て、近くに住む優しい彼の祖母と生活するようになっていく。
祖母の愛情に恵まれ幸せな生活を送っていたジョージであったが、彼が小学校へ通い始める頃、祖母の高齢を理由に父親が彼を連れ戻しに来た。実際に蓄えも多くなく身体も弱ってきていた祖母が幼いジョージとの生活を支えることは難しく、彼は再び実家へ戻る。そして地元のマオリが通う小学校に入学した。
そこでジョージは、すぐにラグビーにのめり込んでいく。豊かとは言えない家計から、継母は彼にラグビーボールを買い与えてはくれなかった。だが、彼は学校の帽子に土を詰めてボール代わりにし、ボロボロになるまで練習に明け暮れた。
創造性の下地
卒業後、寄宿舎生活に入ったジョージは、学費を稼ぐために鉄道工事などをしながらラグビーを続ける。
彼の父親は、ジョージを地元のテ・アウテ大学へ入れることを決めた。しかし、その決定はジョージにとって納得のいくものではなかった。そこは米国資本によるモルモン教徒のための大学であったが、彼は信者ではない。学費が安いこと以外に、父親がその大学を選んだ理由は思いつかなかった。
それよりもジョージは、ヘイスティングスにあるマオリ農業大学へ通いたかった。将来牧場を持ちたいという夢にも繋がるし、ラグビーも強豪である。彼のラグビー仲間の多くは、そこで競技を続けることを決めており、しきりに彼を誘った。
卒業が近づき、ジョージは思い切って父親に訴える。しかし、既に学費の一部をテ・アウテ大学に払ってしまっていたこともあり、彼の父親は最後まで志望を変えることを許さなかった。だが、このことは彼のラグビー選手としての下地にとって、大きな分岐点だったと言えよう。
大学で彼を指導したのは、アーウィン・モーザーという米国人コーチだった。彼はニュージーランドで大学が名前を上げ、学生を集めるためには、ラグビーチームを強くすることが必要だと考えていた。一説には、高校時代からジョージの才能に注目していたアーウィンが、ジョージの学費を一部負担していたとも言われる。そうであれば、彼の父親の頑なな進路決定の裏にあったものも、あるいは想像できる。
だが、ともあれアーウィンは非常に熱心で有能な指導者であった。彼は元々アメリカン・フットボールの選手である。ジョージが教わったパントやスクリューキック、あるいは身体ごとぶつけるようなタックル技術などは、従来の英国式ラグビーには殆ど見られないものであった。彼はここで、後に「極めて創造的な新しいプレーを開発する」と言われることになる、枠にはまらない幅の広いスキルの下地を身につけていく。
1924年、南北マオリ対抗戦が行われた。これは、来るオールブラックスの英国遠征メンバー選考を兼ねた重要な試合であった。ところが、ジョージはそれまでプレーしていたファイブエイスから、このタイミングで突如フルバックにコンバートされる。
彼は慌てて、従兄弟のウォルター・マクレガーなどバックスリーの経験がある仲間に助言を求める。これが、彼にとって2度目の転機であった。
正直なところ、ジョージがコンバートされたのはファイブエイスでの能力不足と見なされたからであった。まだ19歳の青年は、彼自身すら自らの突出した能力に気づいていなかった。しかしそれが、フルバックというポジションで大きく開花する。彼は見事イングランド遠征メンバーに選ばれ、錚々たる名選手らと共に船に乗り込んだ。
そして、伝説のツアーが始まる。
無敵ツアー
この時、オールブラックスはイングランド、フランス、そしてカナダをまわり、国代表のみならず数々のクラブチームなどと試合を重ねた。現在に比べて移動もハードで、宿泊先での練習などもままならなかった時代である。にもかかわらず、彼らは32試合を戦い、その全てに勝利した。いつしか彼らは「The Invincibles (無敵、不屈)」の名で呼ばれるようになる。
そんな中でも、ジョージ・ネイピアの活躍は更に群を抜いていた。そのボールキャッチ、フィールドでの爆発的なキック、得意のスマザー・タックルと、全てが超越していたという。殊にそのアメリカン・フットボール仕込みのタックルは強烈で、ウェールズ戦では相手のカウンター攻撃から3対1となった絶対絶命の場面で、攻撃側3人をまとめて全員ラインの外にタックルで弾き飛ばしたという信じられないような伝説も残されている。唯一プレースキックのみが「彼の基準からすれば」弱点であり、チームではセカンド・キッカーであったということだ。
175cmという身長は当時としては大柄であり、82kgの体重は体型と比べれば非常に高密度であった。フォワードが相手でも全く当たり負けしないジョージは、このツアーで32試合全てに出場し、77得点をあげる。彼の名は一躍世界に広まり、年末には世界最優秀選手のひとりにも選ばれた。
英国のラグビージャーナリストであるデンジル・バチェラー氏は、ある日パブで、ラグビーファン達が「史上最高のラグビーチームを作るとしたら、誰を入れるか」という議論をしているのを耳にしたという。まだまだ、イングランドこそがラグビーの中心地であり、オックスフォードの学生チームこそが最高のラグビーエリートだと信じて疑われなかった時代である。彼らは次々に、英国の伝説的な選手の名前を挙げていった。しかしバチェラー氏は、後に次のように書いている。
『その議論を耳にした時には、固まってしまったよ。自分にとって、ジョージ・ネイピアが果たして史上最高のフルバックであるかどうかを、疑問に思う余地は無い。問題は、誰がオックスフォードのコットン・ブーツを脱ぐべきかということだけだ。』
運命の出会い
無名の若手が望外の幸運で船に潜り込んだ風だった出航から半年が過ぎ、ジョージは国の英雄として凱旋した。彼はニュージーランド最初の「国際的なスター」だったとも言える。
そしてこの年、彼は人生の伴侶と出会う。ティキティキにある教会のオープニング・セレモニー試合に招待されたジョージは、その祝賀会でピアノを弾いていたフインガに一目惚れする。彼女は5歳の時に母親を亡くし、父親もまた第一次世界大戦で駐屯先のフランスにて戦死している。実の両親とも、継母とも絶縁状態になっているジョージの瞳に宿る孤独の色は、フインガの心を映す鏡のようだった。そして彼らは、お互いが彼らの孤独を癒しくてれる相手だと、すぐに確信する。
マオリの伝統的な作法による婚姻は、親族の少ない二人には大変なものだったようだ。媒酌人などの手配に1年を要したというが、彼らは無事に結ばれる。ふたりが結婚式を挙げたのは、彼らが出会ったあの教会であった。
ジョージとフインガは、彼女の両親が遺したランギトゥイカの土地で牧場を始めた。牧場経営は、ジョージの幼い頃からの夢でもあった。彼の父親も、新たな旅立ちを祝い搾乳機を贈ってくれている。ジョージは懸命に働いた。
やがて、彼らは3男1女をもうける。娘の名前は「キウイ・ラウポンガ」。ニュージーランドに自生する銀のシダを意味する名前は、もちろんオールブラックスのシンボルからとられたものだ。
ラグビーでの名声、夢だった牧場、幸せな家族… ジョージ・ネイピアの望んだ全てのものが、そこにはあった。
月の下
しかし彼の人生は、この時代の多くの人がそうであったように、容易には運ばなかった。
1926年からのツアーメンバーに、彼の名前は無かった。理由は定かでないが、牧場経営をはじめたばかりのジョージが招集を断ったとも言われる。しかし、続く28年からの南アフリカツアーからは、明確に除外された。アパルトヘイトこそ未だ成立していなかったものの、既に南アフリカは有色人種と同じフィールドでプレーすることを喜ばない風潮であったためだ。更に29年の豪州遠征は、脚の怪我により初戦の前半のみのプレーとなってしまう。ジョージは1935年までの11年間に46試合をオールブラックスで戦い、99得点をあげた。これは、彼の実力と名声からすれば非常に少ない数字といえる。
折しも、世界は大恐慌時代。彼の経営する牧場も、業績は急激に悪化していた。当時ニュージーランド・マオリのキャプテンも務めていたジョージだが、遂に彼はある決断をする。
1935年に、彼は音楽関係の仕事をしていた従兄弟の勧めもあり、レコードを発表していた。タイトルは「Beneath the Maori Moon (マオリの月の下で)」。故郷への愛と民族の誇りを哀切に歌いあげたジョージの美声は、人々を驚かせた。レコードはニュージーランドの国内チャートで20位以内に入る売れ行きであった。
そしてこの曲は、彼の愛する故郷と家族へ、しばしの別離を告げる歌でもあったのだ。彼は家族の生活を支えるためニュージーランドのブラック・ジャージを脱ぎ、イングランドのラグビーリーグでプレーすることを決断する。
アマチュアリズムを強く信奉するユニオンと異なり、リーグでは選手に高額の報酬が払われる、いわゆる「プロリーグ」であった。この決定的な考え方の違いからユニオンはリーグを非常に敵視しており、リーグでプレーした選手とは決して再契約しないポリシーを貫いていた。彼は年間500ポンドの契約と引き換えに、オールブラックスへも永遠の別れを告げなければならなかったのだ。
晩年
悲愴な決意で旅立ったジョージであったが、愛する家族と離れた生活は、やはり長くは続かなかった。わずか2年後の1937年、彼はニュージーランドへ帰国する。
しかしユニオンへも戻れず、生活の糧も無い彼は、報酬は落としつつもニュージーランドのリーグチームに入る以外無かった。ジョージはリーグの国代表に選ばれ、幾つかの歴史的試合で相変わらずの活躍も見せた。
1947年、ユニオンがリーグとの敵対関係を少し緩和し、出戻りを許すようになった。この頃には世界恐慌も去り、息子たちも成長して生活の安定を取り戻していたジョージは、久方ぶりにユニオンラグビーへ復帰する。そして1950年には、やはりユニオンラグビーの選手になっていた長男と、なんと敵味方のキャプテンとして対戦した。ニュージーランドのトップクラブでこうした対戦が実現したのは、現在のところ史上唯一である。この時45歳になってたジョージは、気が付けばトップクラブリーグで最年長選手となっていた。19歳で国際デビューした華々しい無敵ツアーから、16年が過ぎている。
現役を引退したジョージは、レフリーの資格を取りラグビーに関わり続けた。生活のことや身の回りのことには比較的無頓着で、ラグビーと家族さえあれば幸せだった彼であるが、残酷な時の流れは彼から、その家族を奪っていく。彼と対戦した長男のジョージ(父親と同じ名前だ)が、1954年にマレーシアで殺されてしまう。そして1975年には、最愛の妻フインガに先立たれる。彼女が息を引き取る寸前に子供たちに発した最期の言葉は「お父さんの世話をお願い」だったという。
有り余るラグビーの才能を持ちながら、人種差別や社会情勢、戦争などに翻弄され続けたジョージ・ネイピア。彼を偲び「Beneath the Maori Moon」を歌う時、特にマオリの老人たちは多かれ少なかれ、自分の辛かった思い出を彼にダブらせる。
1986年6月、彼の人生を振り返ったドキュメント番組「This Is Your Life」が放映された。百万を超える人々が番組を視聴し、ジョージの、そして自分たちの家族やラグビーへの愛を再確認した2ヶ月後、彼は静かに妻と息子の元へ旅立っていった。
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-- Posted by nao58








