パリ, 狂熱の元旦(後編): 恢復する傷跡
1913年の元日にパリでつけられた大きな爪痕は、第一次世界大戦という更に大きく深い傷によって抉り取られたかに見える。終戦から2年、人々は戦後の融和 – それは後になれば一時的な休戦に過ぎなかったわけだが – に向けて、再びスポーツという平和な戦争を楽しむ余力を取り戻しはじめていた。
1920年、戦後最初のファイブネイションズ緒戦は7年ぶりのフランス対スコットランドで、またしても元日のパリであった。否が応でも前回の対戦を思い出させる形の両国の対戦は、災禍から目を背けるのではなく、真正面から向き合うことを強要する形で実現されたことになる。
隻眼の帰還兵
再びパリに集った両チームであるが、あの13年の試合にもフィールドに立っていた選手は、ほんの数名であった。7年という歳月がトッププレーヤーが能力を保つには長い期間であることもあるが、やはり戦争による影響が大きかった。あの試合で観衆の声を勘違いした難聴の Walter Dickson も、戦争で命を落としている。
Jock Wemyss は、数少ない戦前・戦後で代表キャップを持っている選手のひとりである。スコットランドで戦争前後にまたがって代表でプレーしたのは、キャプテンの Charles Usher を含めて僅か3人しか居ない。馬力溢れるプロップとしてならした Jock は13年のあの試合ではまだ代表に選ばれていなかったが、強かに生き抜いた代表経験者として重要な戦力であった。とはいえ、戦争の暴虐な牙は Jock を無傷で逃したわけではない。彼は戦闘で片眼を失っていたのだ。
後に彼は、イングランドとの対戦で対面のプロップ Tommy Voyce も隻眼であることに気付く。その形相の凄まじさに驚き、それ以降の試合ではガラスの義眼を試合中でも嵌めるようにしたという。この試合においては眼帯か、あるいは剥き出しの傷痕でプレーしていたのだろう。
失われたジャージ
さて、試合開始前のロッカールーム。ほとんどが初キャップである選手達に、栄光の代表ユニフォームが配られていた。ところが Jock が受け取りに行くと、彼の分は無いという。彼は戦前にも代表でプレーしており、当然それを持参すべきだったというのが協会の言い分である。
しかし前回の試合は戦前であり、6年も前のことである。しかも彼はその試合で、相手選手と健闘を称えあってジャージを交換していた。Jock の訴えは、しかし協会職員に無視された。
そもそも、その黎明期よりスコットランドラグビー協会は「吝嗇」と評されてきた。彼らはアマチュアシップを強く標榜し、プロ化に比較的積極的であるとされるウェールズへの非難から1898、99年に対戦を拒否するようなこともあった。その精神の根ざすところは「清貧」であり、経費は可能な限り抑えるのが当然という考え方である。ましてや終戦直後の物資不足の折であった。
更に、この頃から始められていた背番号制度に最後まで反対していたのもスコットランドであった。遂には1924年に英国王ジョージ5世より「なぜジャージに背番号をつけないのか」とスコットランド首相へ質問がされたという。彼は「これはラグビーであり、牛市場ではありませんから」と答えたというが、実際はユニフォームの使い回しが出来なくなるからであろうと専らの噂であった。
そのような状態ではあったが、実際に Jock があきらめて上半身裸でフィールドへ向かいはじめると、さすがに協会も折れた。ひとつには、半裸に剥き出しの隻眼という彼の姿が、あまりにも不吉な印象だったからではないだろうか。そうでなくても「あれ以来」のフランスとの試合ということで、運営側はナーバスになっていた。彼には急遽ウイング用の予備のジャージが与えられたが、当然ながら彼のフォワード選手らしい屈強な上半身を覆い隠すには不十分な大きさであった。そこに背番号は無くとも、バックスのものが流用されたことは誰の眼にも一目瞭然であったろう。
恢復
試合は息詰まる接戦となった。この日は豪雨によりグラウンドコンディションが最悪であったこともあり、お互いがミスを繰り返しながら辛抱強くディフェンスを続ける展開となる。或いは人々は、長い戦争のうちに「勝利のために耐える」ことに慣れてきていたのかもしれない。結局、スコットランドが後半に1トライとコンバージョンを奪っただけの 5-0 というロースコア決着であった。(*当時のトライは3点、コンバージョンは2点)
試合終了の笛を吹いた時、イングランド審判 Frank Potter-Irwin が緊張しなかったということは無いだろう。7年前に命からがらスタジアムを脱出した、同じイングランド人審判のことが頭をよぎらなかったはずはない。フランスの敗戦が決定した時、多くの観衆が雨にぬかるむグラウンドに降り、審判に向かって走り寄ってきた。選手も運営者も、悪夢の再現への予感に目を覆った…
しかし彼らは Potter を囲むと、彼を高々と担ぎ上げ、好ゲームを称える万雷の拍手に沸くフィールドを見回すように大きく1周したのだ。
これは7年前の事件に対する、フランスのファンからの謝罪であったのだろう。あるいは、試合前に仏メディアで繰り返された「あのような恥ずべきことを繰り返してはならない」というPRが効いたのかもしれない。ともあれ、彼らは自分達の手で生々しかった傷痕をかさぶたで塞ぐことを得たのである。
Jock の義眼も、サイズの合わないユニフォームも、ファンからの荒っぽい謝罪と祝福も、いずれも災禍を「無かったこと」にするようなものではない。無骨で不恰好な、対処療法的なやり方だ。しかし、人々はそうして「起きてしまったこと」と向き合い、乗り越えていくことを繰り返してきた。
終戦間もない、ある熱いニューイヤーズ・デイの出来事である。
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-- Posted by nao58








