NZとアパルトヘイト(1/3): 黒いユニオン・ジャック
映画「インビクタス」に関する話題を未だに目にすることがある。アパルトヘイト撤廃後の民族融和という偉大なテーマが描かれている。スプリングボックス(南アフリカ・ラグビー代表)が数々の苦難を乗り越え、ワールドカップの賜杯を掴む最後の強敵として立ち塞がるのが、ニュージーランド・オールブラックスである。
この大会に於いてもスプリングボックスとオールブラックスは「スージー事件」など幾つかの因縁を作るが、両国のアパルトヘイトを巡る関係は更に深く、入り組んだものになっている。今回は、あの95年に到る長い苦難の道の一部を、ニュージーランド側の視点から少し見てみたい。
ニュージーランドにおける人種問題
スプリングボックスとニュージーランドは、南アフリカが人種隔離政策を正式に打ち立てる遥か以前より、ラグビーを筆頭に様々なスポーツにおいて非常に強力なライバル関係にあった。対戦成績も拮抗しており、世界最強を自負するニュージーランドにとって「最も恐るべき敵」といえばスプリングボックスのことであった。
アパルトヘイト成立後の40年代から、ニュージーランドは「南アフリカ遠征用オールブラックス」として、原住民族マオリ出身の選手を外す選考を行ってきた。マオリがいわゆる「有色人種」であり、南アの人種隔離政策の見地から「人種混成チームは受け入れられない」ためである。これは当然、心ある国民や人権運動家達の反発を呼んだ。しかし不思議なことに、60年代に入るまで、このことは国内でさほど大きな問題としては取り沙汰されなかったようである。これは時の政権与党「ニュージーランド国民党」の「政治とスポーツは別である」とするキャンペーンが功を奏していたとも言えるし、そもそも異民族間の棲み分けが上手くいっている(かに見えた)ニュージーランドにおいて、人種差別に関する運動がそれほど盛んでなかったことにも起因しているようだ。
その頃のニュージーランドで、白人移民を指す「パケハ」(実際にはこの言葉はマオリ語で外国人を総称するが、今日では一般的に英国系移民を指す言葉になっている)と、土着の民族「マオリ」の関係は、事実としてはやはり征服者と被征服者であった。しかし都市部にパケハ、地方にマオリと居住域が自然に分けられたことや、ネイティブ言語の禁止や文化的建造物破壊などの高圧的な政策が採られなかったことから、他の多くの殖民国家に比べ、かなり平和な同居が行われていた。しかし、殊に第二次世界大戦以後はマオリ部族の近代化、生活様式の都市化が進み、両者の居住エリアが混在していくようになっていくにつれ、問題が表面化してくるようになった。
都市部でパケハと共に学び、働くようになってきたマオリ達は、自然にパケハと同じ学校へ子供を通わせるようになる。そこでは「極めて自然に、英語を話すことが薦められるようになっていく」のだ。親たちも子供に流暢な英語を話せるようになって欲しいと願うようになる。伝統文化を学ぶことよりも欧米の近代的な文化に親しみ、森の精霊に祈るよりも科学や統計にソリューションを求める世代が育ってくるにつれ、マオリの有識者達は、はたと気付くことになる。「自分たちの文化が失われつつある」ことに。
彼らは民族のアイデンティティを守るための活動を開始する。それは前述したように「抑圧」への戦いではないので、過激な武力闘争などではなく、多くは地道なものであった。例えば、マオリ語で近代的な文化も教える小学校を作ること。マオリ文化を伝える専門のTV局を立ち上げること。英語で言い換えられていた多くの山や森の名前を、マオリ語での呼称に戻すこと。様々な運動が実を結び、ひとつの成果として1987年にはマオリ語が正式にニュージーランドの公用語のひとつとして認められることになる。
No Maoris, No Tour
そのような民族運動黎明期において、当たり前のように行われていた南ア遠征時のオールブラックス選出基準が問題として大きく取り上げられるようになったのが、1960年代初頭のことである。
“No Maoris, No Tour”(マオリ無しのツアーを許すな)というスローガンの元、南ア遠征であっても公平にマオリからも選手を選出すべきとの15万を超える署名が集められた。当時のニュージーランドの人口は250万に届かない程度であり、15万というのは15歳以上人口の約1/10という数であった。更にこれには多くのパケハからの賛同も含まれている。にもかかわらず、変わらぬ選考基準はその後も続けられていった。
状況が変わらないことに業を煮やした一部の活動家は、1969年に “HART (Halt All Racist Tours)” というグループを結成し、「人種混成チームとの対戦を許可するか、もしくはツアーの中止を」と抗議活動を活性化させていく。そして73年のツアーを中止に追い込み、76年には遂に南ア政府から「混成チームとの対戦を受け入れる」との譲歩を引き出すことに成功した。
ニュージーランドへの国際世論の批難
このような小さな態度の軟化を促すことが出来たのは、ニュージーランドが他国のように「アパルトヘイトの撤廃」を一足飛びに求め、さもなくば交流を断絶するといった手段に出なかったおかげという見方も可能かもしれない。しかし、時の国際世論は、そのような妥協的態度を許しはしなかった。
一定の譲歩を得たことで南アツアーを再開したニュージーランドだが、他国が一切の試合を断っている中でのその動きは「人種隔離政策容認」と捉えられた。特にアフリカ諸国の反発は強く、タンザニアを中心としてIOCに「オリンピックから、ニュージーランドを追放すべし」という働きかけが行われた。しかしIOCは「正式な五輪種目でないラグビーに関することなので、関与しない」との回答を出し、実質的にニュージーランドへの制裁を拒否した。結果、アフリカの計22カ国が76年のモントリオールオリンピックをボイコットする事態へと発展してしまった。
これを境に、ニュージーランドでは単純に自分たちの意見がYesかNoかだけでなく、その態度が外部からどう見えるかといった「ポーズ」にも気を遣う必要性を、ようやくに認識する。それは、運動の在り方をより複雑で過激なものに追いやっていくことになった。
黒いユニオン・ジャック
ほとんどのニュージーランド人にとって、人種隔離政策を不当な人種差別として忌避し、撤廃を求めることは共通した考えであった。それでも国内世論が分裂しているのは、国民党が呼びかけるように「スポーツは政治に不介入」とすべきか否かの1点が焦点であったとも言える。
当時、熱狂的ラグビーファンの多くはスプリングボックスとの対戦を望み、完全な断絶には反対する傾向にあったようだ。対戦中止派は都市部のリベラルな、国際情勢にも敏感な人間に多く、多くの地方では保守的な継続派が占めていたと言われる。政権維持を望む国民党にとって、南アとの対戦継続は国内向けの票集めのポーズとも見られていた。また時の首相ロバート・マルドゥーンが反アパルトヘイト活動を「極左による反体制運動」と断じ取締りを強化したことで、反発は更に強められることになる。「スポーツと政治は無関係」というスローガンこそが、皮肉にもスポーツと政治を結び付けてしまっていたのだ。
ニュージーランドの芸術家 Ralph Hotere は、このような祖国の分裂への憂いと、帝国主義的な弾圧への抗議をこめて “Black Union Jack” と呼ばれる連作を発表する。右はそのうちの1つであるが、真っ黒な「NZ(ニュージーランド)」の文字で象られた、ユニオン・ジャックを思わせるシンプルなデザインが、その暗澹たる気持ちと強い意志を示しているようである。(クリックで拡大表示)
The Springbok Tour
このように揺れ動く国内情勢の中で、後に “The Springbok Tour”(あのスプリングボックツアー) で通るようになる、1981年の南アフリカによるニュージーランド遠征を迎えることとなる。残念ながら混迷は、更にその度を強めていった。(第2回「晴れ、ときどき小麦粉」へ続く)
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-- Posted by nao58








